プルートされたよ…

冥王星にされる。

昨年惑星から外された冥王星(pluto)ですが、なんと「冥王星にする」つまり「評価を下げる」という意味で使われるようになったそうです。(記事

冥王星自身はなにも変わらず宇宙で廻り続けているのにね。(笑)

  • Posted at 01:00 on Jan 12, 2007
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無我

先月号のFUDGEに掲載された高木正勝さんの言葉より。

何かを表現しようとして表現すると、いつも失敗してしまう。
散々悩み抜いても答えが見付からなかったり、何か別のものに衝撃を受けて頭が混乱してしまったり、もしくは、何となく「今だ」と勝手に思った時に、覚悟を決めて取りかかると、不意に新しい映像や音楽が生まれる。
自分がいなくなってしまった様な、何か大きな波に乗っかった気分になる。
そんな時に、本当に良い表現や作品が生まれる。

手を動かせば、メロディーや色は幾らでも出てくるけれど、本当に作品として残したい部分、人に伝えたい部分というのは、実は、その瞬間そのものなのかもしれない。
そこには、自分というものは、あまり存在していない気がする。存在してはいけない気がする。
表現者と周りから言われる立場にあるのに矛盾した話だけれど、自分が表現するものに自分が存在してはいけない気がする。
何か別の、もっと大きなものに触れて。
それを残したいし伝えられる形にしたい。

まさにそうなんだよなぁ。
本当に人を感動させるもの、ってジャンルは関係なく、創っている本人はその瞬間、どこかに行っているような気がする。
「神懸る」という表現があるけれど、まさにあの瞬間はなにかが降りてる。

その時、自分は存在してはいけない?。
まさにその通りです。

  • Posted at 18:24 on Dec 10, 2006
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敬語の種類が細分類へ?

敬語。私自身そうでしたが今までは3種類に分けて教えられました。

・尊敬語(相手を上にする)
・謙譲語(自分を下にする)
・丁寧語(丁寧に言う)

例えば、「召し上がってください。」は尊敬語。
「私が参ります。」は謙譲語。
「~してください。」が丁寧語。
(たぶんこれであってると思うけど…(笑))

なのでこんな使い方は間違ってるわけですね。
・「いただいてください。」(「いただく」は謙譲語。この場合は「召し上がってください」)
・「先生が参られた。」(この場合は「先生がいらした。」)

で、これら敬語がより明確に細分化されるかもしれないそうです。(記事はこちら

ふうむ、なるほど。確かにより明確になって正確な分類になると思うけれど、分類が増えることによって混乱しそうになる気も。分類分けできなくても正しく遣えれば問題はないのですが。

言葉って難しいですね。

  • Posted at 04:24 on Oct 05, 2006
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The Bells for 25th Sunset

先月、とあるデパートのAfternoon Teaにて書いたもの。

“The Bells for 25th Sunset”

耳元でPet Shop Boysが歌ってくれた
いくつかの足跡と どこかで見た記憶

僕の小さな足音が止むと 鈴の音が聴こえた
Afternoon Teaのアイスチャイが のどにしみる

国道走る車の きらきら光るヘッドライトのように
僕の心も どこかに向かっていたらいい

暗くなっていく空の中に
灯り始めた この街の明かりが
僕のまばたきで 一瞬消えた

僕がまばたきをしているあいだも 光っていてほしい
僕が見失った足跡も 見落としてきたなにかも
みんなどこかに向かっていたらいい
人知れずでも どこかに向かっていたらいい

空に小さく 鈴が鳴っている
僕は今も それを聴いている

25歳になった自分に捧げてみたり。

  • Posted at 02:35 on Aug 22, 2006
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均衡を取ろうとする自分と、それを眺めてしまう自分

高校の恩師、佐野先生のブログで語られた「デリケート・バランス」。
まさに… そこなんですよね、自分の位置も。

紹介します。

デリケート・バランス(上)
デリケート・バランス(中)
デリケート・バランス(下)

「生きること」と「食べていくこと」。

先生の言葉が強烈に響いたので引用させていただきます。

(芸術家にとって)「生きること」と「創ること」は一致しているのであって、そこに「食べること」への意識が介入する余地は無い。私の「AとBとのバランス」など、芸術家にとっては「生ぬるい戯言」だと思い知らされた。(中略)
あれから40年…私は今なお「デリケート・バランス」に生きている。忸怩たる思いもあるが、これもまた「自分の人生」だと思えないこともない。しかし、残された人生の時間を全て演劇創造に充てることで、あの21歳だった自分、打ちのめされていた自分に応えて上げたい気持ちもある。

正直、自分は打ちのめされ続けている気がする…。
手を抜いてるわけじゃない、全力で対峙しているつもりだけど、まだまだなのかな。まだまだなんだろうな。ゆっくり考えたい、時間がほしい、と思うのは甘えなのかなぁ。
先生の

「流されそうな川の真ん中に杭を打ち込み、それに一時しがみつきたい」が本音だった。立ち止まる時間が欲しかったのである。

という言葉、痛いほどよく分かります。

これはしばらくまたこもって考えます。
この前「考える前に飛べ」と書いたけれど、やっぱり考えてしまう。我ながらもどかしいというか苛立つというか。