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走ることについて語るときに僕の語ること

村上春樹、「走ることについて語るときに僕の語ること」。
久しぶりに満たされた一冊。
タイトルの原型は春樹さんの敬愛する作家、レイモンド・カーヴァーの短編集のタイトル “What We Talk About When We Talk About Love” から。

ここまで春樹さんが自分のことを書いたのは初めてじゃなかろうか。エッセイや読者との一連のやりとり(「少年カフカ」や「村上さんシリーズ」等)でも何度か触れられた話題はあるけれど、ここまではっきりと文章になったのはおそらく初めてだと思う。
どこかで「自分はあくまでも小説家なので、あまり自分のことを書いてもしょうがないだろう」みたいなことを書かれていたと思うけれど、要するに今までは意識的に書かなかったのだと思う。いや、書けなかったのだと思う。
ここにきて文章に起こし(以前から書き溜めていたのを整理し)、本にし、ということには何かの変化が春樹さんにあったのだろうか? 僕はこの本を読み始めたときそれが頭の隅にあった。「春樹さんになにがあったんだ…!」、というほどではないけれども。
これに対し、春樹さんは後書き、「世界中の路上で」でこのように書いている。

 僕はこの本を「メモワール」のようなものだと考えている。個人史というほど大層なものでもないが、エッセイというタイトルでくくるには無理がある。
 前書きにも書いたことを繰り返すようなかたちになるが、僕としては「走る」という行為を媒体にして、自分がこの四半世紀ばかりを小説家として、また一人の「どこにでもいる人間」として、どのように生きてきたか、自分なりに整理してみたかった。
 小説家がどこまで小説そのものに固執し、どれくらいの肉声を公にするべきかという基準は、個人によって違ってくるだろうし、一概には決めつけられない。僕としては、できることならこの本を書くことを通して、僕自身にとってのその基準のようなものを見いだすことができればという希望があった。
 そのあたりがうまくいったかどうか、僕にもまだあまり自信はない。でも書き終えた時点で、長く肩に背負っていたものをすっと下に降ろすことができた、というささやかな感触のようなものがあった。
 たぶんこういうものを書くには、ちょうど良い人生の頃合いだったのだろう。

本の中心の柱となっているのは、2005年11月6日に開催される(開催された)ニューヨーク・シティー・マラソン。
これに向けての春樹さんの走りこみに僕らはつきあうことになる。最初はハワイ・カウアイ島のノース・ショアから、そして秋のケンブリッジ…。

僕自身、春樹さんに影響されて走るようになった人間のひとり。不思議と読むと走りたくなる。影響されやすいみたいだ。
そしてこの本は小説家としても多々受けることがあった。

 小説を書くのが不健康な作業であるという主張には、基本的に賛成したい。我々が小説を書こうとするとき、つまり文章を用いて物語を立ち上げようとするときには、人間存在の根本にある毒素のようなものが、否応なく抽出されて出てくる。
 作家は多かれ少なかれその毒素と正面から向き合い、危険を承知の上で手際よく処理していかなくてはならない。
 そのような毒素の介在なしには、真の意味での創造行為をおこなうことはできないからだ。(妙なたとえで申しわけないが、河豚(ふぐ)は毒のあるあたりがいちばん美味い、というのにちょっと似ているかもしれない)。
 それはどのように考えても「健康的」な作業とは言えないだろう。
(中略)
 しかし僕は思うのだが、息長く職業的に小説を書き続けていこうと望むなら、我々はそのような危険な(ある場合には命取りにもなる)体内の毒素に対抗できる、自前の免疫システムを作り上げなくてはならない。
 そうすることによって、我々はより強い毒素を正しく効率よく処理できるようになる。言い換えれば、よりパワフルな物語を立ち上げられるようになる。
 そしてこの自己免疫システムを作り上げ、長期にわたって維持していくには、生半可ではないエネルギーが必要になる。
(中略)
 真に不健康なものを扱うためには、人はできるだけ健康でなくてはならない。それが僕のテーゼである。
 つまり不健全な魂もまた、健全な肉体を必要としているわけだ。逆説的に聞こえるかもしれない。しかしそれは、職業的小説家になってからこのかた、僕が身をもってひしひしと感じ続けてきたことだ。
 健康なるものと不健康なるものは決して対極に位置しているわけではない。対立しているわけでもない。それらはお互いを補完し、ある場合にはお互いを自然に含みあうことができるものなのだ。
 往々にして健康を指向する人々は健康のことだけを考え、不健康を指向する人々は不健康のことだけを考える。しかしそのような偏りは、人生を真に実りあるものにはしない。

/// 第5章 「もしそのころの僕が、長いポニーテールを持っていたとしても」

まさにそのとおりだと思う、いや、正しくいうならば、僕もそのような傾向の人間だ。
個人的にこの点では昨年・2007年はちょっと失敗というか、目測を誤った。僕はある意味「毒素」をなくしかけてしまったのだ。平和的になりすぎた。(笑)
しかしそれは僕にとっては真の平和ではなかった。やはり僕には沸々と体内の、存在の奥底から湧きあがってくる「毒素」に向かい合い、激しい白兵戦ののちにそれを捌ききってこそ、その世界が僕に表現することを許してくれる、それを実感した。
毒をなくそうとした自分が見たものは、平坦で迫ってくるもののない、どこか味気ない世界だった。それに満足できないということは、やはり自分は「毒」を必要とするタイプの表現者なのだと自覚した。
だから今年はまた自分の「毒」を大事にしたいと思う。そのためにもそれに耐えうるだけの体力と健全さを身につけねばなるまい。

最後に本の紹介。
これは小説ではないのである意味で純粋に春樹さんの文章を楽しむことができます。
村上春樹の文体は好きだけど(比喩表現が好きだとか、クリスプな(歯切れのいい)文章が好きだとか)、彼の物語の方向性は苦手、という方には最適な一冊ではないでしょうか。
フル・マラソン。いつか走りたいですね。

村上春樹 「走ることについて語るときに僕の語ること」
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  • Posted at 22:48 on Jan 09, 2008
  • | 2 Comments

2 Responses

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  • miki says:

     面白そうな本ですね。読んでみたいと思います!
    「毒素」はある意味、その人の個性みたいなものだと思うなぁ。
    一滴で(もちろん比喩的な意味で)人を殺せるくらいの力があるとしたら、なんて素敵?というか、私はとても憧れますね(毒素に)(笑)。

  • >> mikiちゃん
    そうだね。
    そういう素敵な個性はほんとある意味劇薬だよね~。
    ゾクゾクしちゃうね。(笑)