言葉の変わる速度

夜明け
夜明け。

言葉は生き物のようなもので時代の流れに沿って変化したりします。平安時代の人と会話できるかといったら難しいかもしれない。「いとおかし?」くらいしか言えません。
また一瞬とも言える短い間に生まれては消えていく表皮細胞のような言葉、いわゆる流行語というのもあります。「よっこいしょういち」とは今でも言ったりするかもしれませんが(「らき☆すた」の柊つかさで知った人も多いかも)、「チョベリグ」なんて久しく聞いていません。本当に流行ったのかすらもう思い出せない。

流行語も含めて、言葉というのはその時その時の時代の空気を吸って大きくなったり小さくなったり、ちょっと向きを変えるといったことを繰り返す、そういう変化が運命の生き物なのでしょう。
ではある言葉が変化するその瞬間はいつなのだろうと考えてみるとこれが難しい。結局言葉というのは我々人間が遣うものなので、ある日から突然消えたりはしません。徐々に遣う人が少なくなり、流行語のように耳にしなくなり目にしなくなり、忘れていくうちにそもそもその言葉を知らない世代が生まれ増え、そうしてひとつの言葉が、遣い方が死んでいく。生き物とはいっても非常にゆっくりとした生命なのかもしれません。

例えば「新しい」という言葉があります。同じ意味で「新た」という言葉があります。
「新しいスニーカー」といったら「あたらしい」と読みますが、「新たな気持ち」の場合は「あらたな」と読みます。実は昔は「新しい」の場合も「あらたしい」と読んでいたそうです。ところが言いにくかったのか分かりませんが「あらたしい」のほうは「あたらしい」と読むように変わってしまった。おそらくこれも一朝一夕で変わったのではなく、世代の流れでゆっくりと押し流されるように変わっていったのかもしれません。

今現在も変わりつつある言葉というのがあります。多くは誤用というかたちで遣われることの多くなってきた言葉たちですが、上に書いたような「変化することが運命」とは分かっていても、なかなか誤用と分かっているうちから歓迎するのも難しい。このあたりの「誤用と変化のボーダーライン」はおそらく個々人の受け止め方で変わると思うのですが、私はたぶん保守的なほうです。誤用だろ、とツッコむ人がいるうちはまだ変化したとは言いたくない気持ちがあります。

違和感感じない人も多いだろうなぁとは思いつつ、ひとつここで生活の中で目にしたり聞いたりする言葉のうち、私が気になる言葉を挙げてみようかと思った次第。
それぞれの言葉について簡単な解説、そして私が個人的にそれを受け入れられるかどうかという私以外にはあまり関係のない一覧です(笑)。皆さんはいかがでしょうか。ちなみに順番は思いついた順です。


  • 独壇場(どくだんじょう)
    • 一人舞台という意味で遣われること多々。こんな言葉はない(だが広辞苑には載るようになった)。
      正しくは「独擅場(どくせんじょう)」。「擅」と「壇」の字を間違えた人が多いらしくそれが原因か。「擅」という字に「一人で勝手にすること」「ほしいままにすること」という意味がある。他には擅断(専断とも)など。
    • これはまだ誤用でしょう。でも間違えている人が多いのも事実。逆に「独擅場」と正しく言っている人を見ると「こいつ…できるな」と内心思います。
  • 課金
    • スマートフォンアプリの有料の機能拡張やオンラインゲームなどで課金アイテムというものが出てきてよく目にするようになった言葉。本来はサービス提供者がユーザに向けて料金を課する、つまり「課金する」ものであるが、ユーザが「アイテムを購入した、料金を払った」という意味で「課金した」と遣う人が結構多い。この場合正しくは「(プラグインなどの)料金を払った」「課金アイテムを購入した」となる。要するに単に「買った」と言えば良い。
    • これは明らかに誤用。間違えていたら単に言葉を知らないだけかと。
  • ホームページ
    • 「ウェブサイト」の意味で遣う人が非常に多い。正しくはブラウザのスタートページ(初期表示のページ)のこと。またはウェブサイトのトップページのこと。
    • これはもう諦めている(笑)。でも自分は遣わない。
  • 性癖
    • 「性的嗜好」「性的フェティシズム」の意味で遣う人が多い。正しくは、というより本来この言葉にセクシャルな意味はまったくない。「性質」「性分」「性格」などと同じ意味。「散らかった机を見ると片付けずにはいられない性癖だ」などと遣う。
      ちなみに「フェティシズム」も学問により意味合いは全く異なる。例えば人類学では「呪物崇拝」の意で、性的フェティシズムは心理学での用法であり、しかも性的倒錯(パラフィリア)というもっと深いものを指す。
    • これは誤用。というか本来の意味で遣っている者としては誤解を生むこともある迷惑な誤用だったり。
  • 姑息
    • 「卑怯」という意味で遣われること多々。正しくは「一時の間に合わせ」とか「その場逃れ」という意味。「姑息な手段」とは例えば「おかずが足りなかったので缶詰を開けて間に合わせた」とかそういう感じか。
    • これはもしかしたら正しく知っている人の方が少なくなってきているかもしれない。
  • 確信犯
    • 悪意を持って、悪いと分かっていて、または(ある結果を)狙って行動する人のことを言ったりするが、本来は「本当にそれが正しいとの確信を持って」行動する人のこと。
    • これは誤用された人が可哀想である。例えば道義的責任感や正義感より内部告発した人などは確信犯と言える。
  • おまけ:ツンデレ
    • 本心では仲良くしたい(デレ)のに、素直になれずつい素っ気ない態度や攻撃的な態度(ツン)を取ってしまう人物を表現したりするが、本来は「皆の前では興味のないふり、または嫌いかのような態度を取るのに、二人きりになるとデレる」人物のこと。
    • こういうサブカルの言葉というのは薄まっていくのが運命なのでツッコむのも野暮なのだが、最近は薄まりすぎてもうどうでも良くなっていたり(笑)。

とりあえずパッと思いついたのはこんなところでしょうか。もちろん私が知らずに誤用しているのもあると思います。言葉はできる限り正しく遣いたいなと思っているのでチャンスがあれば知りたいですね。

こういうのまとめたページとかないかなと思ったらニコニコ大百科にありました。

誤用の多い日本語の一覧とは (ゴヨウノオオイニホンゴノイチランとは) [単語記事] – ニコニコ大百科[nicovideo.jp]

「穿った見方」は知らなかったなぁ。

  • Posted at 23:06 on Apr 11, 2015
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この切り返しは使える…!

日経新聞、2011年8月4日朝刊の「春秋」がかなり笑えたので掲載。

日経新聞、2011年8月4日朝刊の「春秋」

中学生の男の子が、夏休みの宿題になかなか手をつけない。部屋でゲームばかりしている。しびれを切らせて母親が問う。「いったい、いつになったらやめるの」。子供は涼しい顔だ。「一定のメドがついたらやめます」。実話である。
▼ただでさえ節電で暑い夏。母親はイライラが募るだろう。「一定のメドって何なの」と聞けば、「動きを注視していきます」。頭にきて「そんなだらしがないことでは駄目な大人になるよ!」としかると「私の価値なんかどうでもいいんです」と、しょげてみせる。機転の利く子供のようだから心配はなさそうだ。
▼震災の直後は、人々の言葉に重みがあった。小さな子供たちが「昨日は電車を一生懸命走らせてくれてありがとう」と言い、駅員は泣いた。つぶれた家から奇跡的に助け出された老人は「また再建しましょう」と笑顔で語った。大変だったことを聞かれたレスキュー隊の隊長は「それは隊員です」と声を震わせた。
▼思い出してほしい。つながらない電話をかけつづけ、絞り出す思いで伝えた「一言」が誰にもあったはずだ。生死が頭をよぎるとき、人は自然に言葉を大切にし、短い言葉にも愛や責任が宿る。わずか5ヵ月の間に、この国の言葉はどこへ行ってしまったのか。人の命がかかわる状況は、いまも変わってはいない。

日経新聞、2011年8月4日朝刊の「春秋」より。

久しぶりに声上げて大笑いしました。僕も使わせてもらいますわ(笑)。

昔は「記憶に御座いません」[#1]とかもありましたね。1976年だそうですが便利な返しなのでたまに使います。最近だと「想定外」[#2]でしょうか。
政治家や実業家にとどまらず、今や一般人もこのくらい図太くないと生き残れないですね。

  • Posted at 22:13 on Aug 07, 2011
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続・「自己」に寄り添うことが「らしさ」を再創造する

「自己」に寄り添うことが「らしさ」を再創造する の続き。
紹介した新聞のコラムの続きが掲載されていたので引き続いて。今回は主に男女関係について取り上げられていました。

日経新聞2010年7月13日「草食系男子へのまなざし」
日経新聞2010年7月13日「草食系男子へのまなざし」

「草食系男子のマインドの根本にあるのは、徹底した対等感覚である。」というのは草食かどうかは知りませんが確かにその通りですね。
誤解を恐れずに言ってしまえば、僕にとっては男女の違いなんてありません。基本的に「人」としか見ていない。だから逆に、「性差」をそのまま表に出したシステムには激怒に近い不快感を覚えます。女性専用車両とか映画館の女性優遇料金制度、飲食店の女性と記した少量メニューなどです。同じ仕組みが男性にも用意されていればいいだけの話なのですけどね。メニューなんて「女」など関係なしに「少量・ミニ・ライト」などと表現すればよい。

それぞれ個々人のセクシャリティはあくまでもセクシャリティに過ぎず、生活の中での付き合いに男女の差はない、というのがこの「徹底した対等感覚」の示すところでしょうか。
# まぁ実際の生活の中では異性の既婚者とは距離を置く、などの気は遣いますが。自分達だけの問題じゃないしね。

尤も、こういう考え方を「快く思わない」というのもよく分かります。当然そうだろうと思っているところで「は?」みたいな反応を示されたらそりゃ頭に来るでしょうね(苦笑)。
結局のところ、「人」である前に「男/女」であるか、「男/女」である前に「人」であるか、の違いに思えます。もちろん価値観の問題として。

プラトンの「饗宴」に出てくる、アリストパネスの話に人間の起源の物語があります。(Wikipedia
もともと人は今で言う2人で1人だった、というものです。頭が二つあり、腕が4本あり、といった。そして性は3種類あった。「男男」と「男女」と「女女」の3種類。でもある時神さまが怒って彼らを半分にしてしまった。その結果、人の性は2種類、「男」と「女」になったというものです。それで人は別れてしまった自分の片割れを探し求めて生きている、というお話。この話は村上春樹さんの「海辺のカフカ」にもちょっと出てきます。
たぶんこれで言えば僕は古代の「男女」に近い形なのでしょう。一連の記事の“草食系”と呼ばれる人々もおそらく自分自身にも相手に対しても「男」か「女」かなんて意識することは少ないのではないでしょうか。セクシャリティはあるけどそれはそれ、普段は関係ないっしょ、というような。

「新時代の恋愛のスタイル」、きっと「恋慕」より「共鳴」というものがキーになるのではないでしょうかね。
それに恋愛なんてしようと思ってすることじゃないですしね。なるようにしかならないんじゃないですか。(棒読み
でもひとつだけ思うのだけど、そんなに恋したいですか? たぶん逆に「なぜそんなに興味ないのか?」と思われるのだろうけど。「恋したい/したくない」ではないのです。「どうでもいい」のです。たとえで言えば173日後に雨が降って欲しいか?という問いに近い。どっちでもええがな!(笑)

「自己」に寄り添うことが「らしさ」を再創造する

この一年ほどでしょうか、「草食系男子」という言葉を目にするようになりました。個人的経験則として「~男子」「~女子」という造語にろくなものはないので調べもせず「ヴェジタリアンが流行ってるのか?まぁロハスとかも流行ってるしね」と思っていたのですがどうやら違うらしい。
先日読んだ雑誌、「Courrie Japon」8月号にこんな説明がありました。

オオタニ・タクヤは、米国の名門ビジネス・スクールでMBAを取得することに憧れている。だが彼は、来年東京の大学を卒業したら、米国ではなく日本の大学院に進学するつもりだ。
「僕は草食系なんです」とオオタニは物憂げに言う。“草食系”とは、ストレスを避け、リスクを管理し、庭先の草を食んで満足しているような人を指す流行の表現だ。

Courrie Japon8月号「世界が見たNIPPON」
ハーバード入学者がたった1人に…留学を目指さなくなった若者たち(ワシントン・ポスト)

なるほど…と思っていたら母から「あなたのことを思い出した」と新聞の切り抜き。そのものずばり“草食系”について書かれていてなかなか良いコラムだったので掲載。(同じ経緯のCreative Classについてはこちら

題は、「『男らしさ』からの解放」。

日経新聞2010年7月6日「『男らしさ』からの解放」
日経新聞2010年7月6日「『男らしさ』からの解放」

あ、これ俺だわ。というか時代がやっと自分に追いついてきたんだ(笑)。

冗談はさておき、僕が思うにこういう人、今でこそ「草食系男子」などと表現される人は昔もいたと思うのです。料理が好きで、手芸が好きで、花が好きで、身の回りのことは自分で楽しみながらやり…といった。
でも時代の価値観とかタイミングによって埋もれていた。こうして雑誌や新聞に取り上げられることもなく、ひとつの生き方として紹介されることもなく、せいぜいが「女々しい」とか「男なのに」とか言われるのが関の山。現に僕も言われてきました。
でも僕にもし「才能」と呼ばれるものがあったとしたら、それは「自分の価値観を曲げない」ことでしょうね。誰に何と言われようと、冷やかされようと、女子に馬鹿にされようと、自分の価値観は偽らなかった。だから正直、「草食系?ハァ?今更何言ってんの?キャベツでも食ってろ」という感じなのですが(笑)、こういうのがそこそこ広く受け入れられるようになって、そういう価値観を持つ若者がイレギュラーな人種として嘲笑の的にならないならいいことだと思います。そんなつまらない人の評価で自己否定の思いをする事なんてないですからね。

そしてもっと深く考えてみると、この時代にこういうのが出てきたのは必然だとも思います。現代は「世界が狭くなった」と表現されるように自分の影響範囲(授受問わず)は拡散の一途を辿っているわけですが、そうすると重力と同じようによほど「自己」をしっかり保っていないと膨張の力に負けてバラバラになってしまいます。
「自分の居場所がない」というのも「居場所がない」というより「自分がいない」という感覚がより近いのではないでしょうか? 自分が何者なのか分からないんですよね。もしその先まで行ってしまったらもうアウト・オブ・コントロール。悲劇を覚悟しないといけないかもしれません。僕もその先へ行ってしまったことのある人間なのでそこがどういう世界なのか僕なりに分かります。
自己を自覚する代わりに周りの流れに乗れればそれでもいいのですが、それにしては今の流れは命をも奪いかねない激流。それに身を委ねよというのも「冗談は小説だけにしてくれ」と言いたくもなるでしょう。流れに乗れなかったら「負け」とか勝手に判定される時代ですしね。(そもそも勝負などした覚えはないぞ!)

こう考えると、人間の本能として自己に向かうのは当然の流れに思います。自分を引き裂こうとする力に文字通り必死に抵抗する圧力が自分の奥深くへかかっていく。そうなれば「自分らしさとはなにか?」という問いが生まれるのも当たり前。以前と違う点があるとすれば、今やこの問いは人生の「オプション」ではないこと。生死に関わる回答必須な問いであることです。

つまり、この時代になって自己主張する人が増えたのではなく、逆だと思います。
時代が「自己」を引き出させたんです。「お前は誰だ?」と。「お前らしさとは何か?」と。世界は常に問いかけ続ける。生き残るためには僕らは答えなくてはならない。「自分はこうだ」と。
「自己」に寄り添い、「らしさ」を再創造する。何のために?と言われれば「生きるために」なんですね。

要するに僕が言いたいのは、“草食系”などと言われても、僕らが向かおうとしているその先、目標への執念。自分と向き合い、対話し、見極めようとする姿勢。それらはある意味ではとても攻撃的だということです。
「穏やか」?「目の前の状況に満足」?ふん、寝言は寝て言ってくれよ、ベイビー。

静かなる闘い。
願わくば同士のそれぞれに、決して見捨てなかったその人だけの悟りがこの先の未来のどこかで待っていてくれますように。そしていつか本当の穏やかな朝を迎えられますように。グッドラック!
…まったく楽じゃないよな!!(と同意を求める

  • Posted at 02:54 on Jul 13, 2010
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「鼻糞」の別名を考える

1月7日の夕暮れ
(※写真と本文はまったく関係ありません。)
1月7日の夕暮れ。GR Digital IIIにて撮影。自動的に吐き出すJPEGそのままですが、発色が独特。RAWファイルから近づけようとするもなかなか難しい色。

尾籠な話題であれですが、先日ふと「『鼻糞』と言うけれど、もっとましな呼び方はないのか」と思いました。それでさっそくWikipediaを見てみると、こんな一文が。

鼻糞(はなくそ) – Wikipedia

備考 [編集]
目糞は目やに、耳糞は耳垢と呼ぶのが正しいとされるが、鼻糞には別名がない。糞という言葉を使用することが児童への教育の上で問題があるため、鼻垢などを正式名称にするべきではないかとする意見がある。[要出典]

なるほど。そういう意見が実際にあるかどうかは置いておいて、自分自身のことを考えるとやはり「鼻糞」という言葉を口にするのは抵抗があります。大小便のことを言うにも「トイレ(お手洗い)行ってくる」としか普段表現しない人間です。そりゃ無理だって。

尤も悪態をつくときには「糞!(Shit!)」とは言わない代わりに、「脳味噌入ってないんじゃない?」とか「一回ちょっと死んだほうがいい」(←自分自身に対してよく遣う)とか言うので自分でもこのへんの道徳基準がよく分かりません。
「脳味噌入ってないんじゃない?/脳味噌入れ忘れてる」は我ながら気に入っている罵倒文句です。その絵を想像するとコミカルでいいじゃない?(笑) 怒りもそこそこ和らぎます。

話を戻して「鼻糞」ですが、それならば別称を考えればいいというわけでいくつか考えました。ちなみにWikipediaに書いてある「鼻垢」はちょっと違う気がします。「垢(Wikipedia)」というのは死んではがれ落ちた皮膚(角質)のことを一般に指すので、粘膜が固まった鼻糞の別称にはどうもしっくり来ません。まだ「鼻やに」のほうが近いと思います。

◆鼻くず
◆鼻かす
◆鼻ごみ

この中で一番言いやすい(語呂がいい)のは「鼻かす」でしょうね。「鼻かすがついてるよ」などといった日常的台詞でもしっくりきます。

というわけで、個人的にこれからは「鼻かす」と呼称することに決定!
「鼻紙」は「花紙」とも書きます。それに倣って「花かす」とするとなかなか品がありつつ儚げな様も表していていい感じです。