代官山散歩 Let it be…

先日のコンサート後、どこか知らない街へ行きたいと思って代官山へ。渋谷の隣ですが、今まで行ったことがありませんでした。
歩きながらいろいろなことが出てきたのでカフェにてつらつらと…。


こぢんまりとした駅を出て、カルバン・クラインのあるT字路を右へ行く。歩きながら、新鮮な驚きとわくわく感を感じる。なんと自分好みな街であることか。

歩きながら、いつのまにか僕は高校時代の自分と向き合っていた。
“なんだ、俺はなんも変わってねーんだな”と思って少し安心した。あの頃も今と同じようにふらふらと知らない街を歩くのが好きだった。あてもなくひとりで電車に乗るだけでどきどきした。

好きに生きていた。なにをしろとも言われなかったし(言われたとしても聞く耳もたなかったと思う)、なにをしなきゃとも思っていなかった。
ただ、自分が何者なのか知りたかった。だから好きにやりたいことをやりたいときにやった。
夜明け頃、家をそっと抜け出して缶コーヒーを飲んで、公園に行ってごみ拾いをしたりした。
休みの日に学校へ行って人知れず片っ端から教室を掃除したりもしたし、学校では自分が興味を持った教科を隔てなく受講した。逆に出たくないと思った授業はすぐに出なくなった。
そして知らない街へ行って、知らないカフェで知らないコーヒーを飲んだ。

今になって気づいたけれど、ものすごくしあわせだったんだと思う。不安と葛藤と夢と好奇心を埋もれるほどに抱えていた。興味あることはなににでも首を突っ込んだ。

唐突に映画、「もののけ姫」のワンシーンがよみがえる。故郷の隠れ里の一族を捨て、旅に出た少年アシタカと、彼の獅子ヤックル。
山犬とともに森に生きる少女、サンがヤックルのくつわを外して言う。

「好きなところへ行き、好きに生きな」

きょとんとしたヤックルは何日も傷を負い眠るアシタカのそばにいることを選ぶ。
美しい物語だ。

そしてふと最近読んだばかりの本の一節がことんと音を立てて頭の中に流れ始める。

「人が生きることに意味があるのは、それが神のすべてをつぎこんだ試みだからである。」
(「誰も知らない男」 ―ブルース・バートン)

生きることの意味って自分とか誰かが見出すものではなくて、そもそも神の目的なんじゃないか。
自分が誰にとって生きる価値があるとかないとかじゃなくてただ神にとって価値があるんじゃないか。
だとしたら僕らが(自分自身を含め)誰それのことをとやかく言ったりするのはものすごく見当違いなことなのではないか。
もっと素直に生きていいのではないか。自分に正直に。

そんなことを考えながら、陽の暮れた知らない街のカフェにてしばし思いに耽る。

テラスの外は暗い。暗いが、その先にはまだ見ぬ光が輝いているようだ。
その光は誰かが見出すことをじっと待っている。

  • Posted at 07:15 on Apr 19, 2006
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