myself/yourself
1992年6月、ブラジル、リオ・デ・ジャネイロ。
そこで当時12歳の少女が国連会議にて世界の指導者たちを前にした伝説のスピーチ。
そのスピーチ全文はこちらをどうぞ。
大人なんかクソくらえだ、と寒空につぶやいていた自分もいつのまにか大人になってるわけで。
今年は生徒と教師の関係が注目されたけれど、問題は、本当に尊敬できる大人がいないということじゃないかと。
どんなにヒドイ環境に置かれても、その中でたった一人でも、心から尊敬できる大人がいたら子どもの視線はそちらにフォーカスされる。それは親じゃなくても先生じゃなくてもいい。近所の人でもブラウン管なり液晶の中の人でもいいかもしれない。CDで歌ってくれる人でもいいかもしれない。本の中で語ってくれる人でもいい。
どこでもいいから、手を伸ばせば彼ら、彼女たちの手を握れるところに僕はいたい。ときには絵の中で。ときには本の中で。
でも考えてみると「尊敬できる大人」ってのは本当に難しいことだな。でもそこで「しょうがないだろう、子どもには分からない」なんて煙に巻く大人はそれこそクソでもくらっていればいいわけで。
なぜ冒頭のスピーチからこんな話になったかと言うと、大人に欠如しているひとつの意識が、「自分は子ども自身でもある」ということだと思うから。
未来のことに鈍感でいられるのは、根底に「自分には関係ない」という意識があるから。
でも子どもが自分自身でもあると自覚しているなら、関係ないとは言えない。
自分は自分だけのものだ、と考えるか。
自分は君でもある、と考えるか。
人間はみんなつながってる、と考えるか。
“myself/yourself”
わたしはあなたでもあり、あなたはわたしでもある。
その意識を持っているのが大人じゃないか。僕はそう思う。
リオで12歳の少女が投げかけた問いも、孤独に葬られた少年少女の声も、結局は同じ答えを待っているように、僕は感じる。
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