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Thinking : SITE-ICHIJO. NET/BLOG 跡地

僕が Amazon.co.jp を使わなくなった理由。

“脱アマゾン”を目指して
“脱アマゾン”を目指して。

Amazon.co.jp。今や泣く子も黙る総合ショッピングサイト。「ネット書店」として日本でも2000年11月1日にサーヴィス開始してから早10年が経ち、その取扱商品たるやデパートもびっくりです。

Amazon.co.jp: Amazon.co.jp 10年の軌跡[amazon.co.jp]

私も開始当初より利用しているのでアマゾンで累計どれくらい購入したか分かりません。アカウントを変えていないので遡れば明らかになるはずですが、ちょっと怖くて知りたくないですね。^^;
控えめに言っても「ヘヴィユーザ」の域を出ないのは確かでしょう。それぐらいよく使っていました。

そんな私ですが、去年あたりから大きな買い物(例えば数万円するようなもの)はできるだけアマゾン以外で買うことにしました。
それから日が経ち、今年の半ばからはほとんどをアマゾン以外のサイトで買うようにし、アマゾンで予約していた商品はキャンセルという処置を繰り返し、今ではアマゾンで注文しているものはありません。

なぜか?

ご存じの方もおられるかもしれませんが、私たちが普段購入している「アマゾン」、つまり Amazon.com の日本法人、アマゾンジャパンは日本に税金を払っていません。正確に言えば、「法人税」を払っていません。(消費税は払っているはずです。)
知らない方はこれを聞いて「そんな馬鹿な」と思われることでしょう。でも本当です。少なくとも2010年10月11日現在においては。

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幸福、自由、美徳。その重なりに生まれる「正義」のかたち

マイケル・サンデル著、「これからの『正義』の話をしよう」。
ずいぶん話題になっているようですね。NHK で「ハーバード白熱教室[nhk.or.jp]」という番組があり、そこから人気が出ているようです。私は番組を観たこともなく、この授業のことも知らなかったのですが、この本を発売前に知り興味がわいたので予約して読みました。きっかけは Twitter での早川書房[hayakawa-online.co.jp] さんのツイート[twitter.com]。
「面白い意見だ、君の名前は?」というのがサンデル教授の台詞のようで、これにとても惹かれた次第。

これが読んでみるとおもしろい!
難しい主題であるにも関わらず分かりやすい上に、非常に考え甲斐のある中身の濃い本でした。一度目は「あぁなるほど!」という発見的なおもしろさでしたが、二度目に読んだときは「ううむ、なるほど…」という感じです。
この本では分かりやすい身近な例から「正義」とは何か、その正義はなにを拠り所としたものか、その拠り所が行き渡ったとき生じうるメリットとデメリットは何か、そんなことを推察していきます。この推察の旅、サンデル教授曰く、「『正義』を探求する旅」がとてもおもしろい。

ところで「『正義』とはなにか?」という問いに向き合うと賢明な人は自然とこう答えることでしょう。
「『正義』とは結局のところ人それぞれではないか。もし『正義』を定義してしまうならば、それは価値観の押しつけにつながり、独善的なものになるのではないか」と。
まったくその通りです。しかし、この本がすごいなと思ったのはそんなことは当たり前の常識として、さらにその先を考えていることです。「正義」とは何か。それを考えるのは確かに新時代を考えることでもあるな、と思いました。

冒頭に出てくるひとつの例を引用します。僕が解釈した上でまとめたものですので読み違いがあるかもしれません。

 二〇〇四年夏、メキシコ湾で発生したハリケーン・チャーリーは、猛烈な勢いを保ったままフロリダを横切って大西洋へ抜けた。二二人の命が奪われ、一一〇億ドルの被害が生じた。チャーリーは通過したあとに便乗値上げをめぐる論争まで残していった。
 オーランドのあるガソリンスタンドでは、一袋二ドルの氷が一〇ドルで売られていた。八月の半ばだというのに電気が止まって冷蔵庫やエアコンが使えなかったため、多くの人びとは言い値で買うより仕方がなかった。木々が吹き倒れたせいで、チェーンソーや屋根修理の需要が増加した。家の屋根から二本の木を取り除くだけで、業者はなんと二万三〇〇〇ドルを要求した。小型の家庭用発電機を通常は二五〇ドルで売っている店が、ここぞとばかりに二〇〇〇ドルの値札をつけていた。老齢の夫と障害を持つ娘を連れて避難した七七歳の婦人は、いつもなら一晩四〇ドルのモーテルで一六〇ドルを請求された。

第1章 正しいことをする Page.9

ここには便乗値上げをめぐる「正義」の論争が隠れています。
この本を通してサンデル教授は、「『正義』に関わる問題は三つの理念を中心に展開されることになる」と指摘します。その3つの理念というのは、「幸福」「自由」「美徳」です。

 便乗値上げをめぐる論争を詳しく見てみれば、便乗値上げ禁止法への賛成論と反対論が三つの理念を中心に展開されていることがわかるだろう。つまり、幸福の最大化、自由の尊重、美徳の促進である。これらの三つの理念はそれぞれ、正義に関して異なる考え方を提示している。

第1章 正しいことをする Page.13

便乗値上げ禁止法に反対する人びと、つまり便乗値上げは不正義ではないとする人びとの主張は、これら3つの理念のうち幸福が最大化されること、そして市場の自由を尊重するべきであるという論拠にあります。
便乗値上げにより供給能力が刺激されれば、ほどなくして供給量は増えていくことが予測できます。そのインセンティヴ(動機づけ)を便乗値上げは生産者や提供者に与えると。便乗値上げにより一部の人は購入できないかもしれない。しかしその不幸を上回る歓迎すべき効果があると。社会全体の満足の総和のためにはいくらかの個人の犠牲は致し方ない、というのが最大幸福原理、功利主義の考え方です(これについては第2章で掘り下げます)。
また何よりも市場の自然原理、つまり価値の高いものは値段が高くなる、その価格は政府ではなく各人が決めるべきだ、その自由を尊重するべきだという論拠をも持ち出すでしょう。元来、価格は需要と供給によって決まるものであり、「公正な価格」といったものは存在しないというわけです。この理念についてはリバタリアニズム、自由至上主義として第3章で取り上げられています。

一方、便乗値上げ禁止法に賛成する人びとはこれら2つの理念について別の見方をとります。

 第一に、困っているときに請求される法外な値段が社会全体の幸福に資することはないと、彼らは主張する。高い価格のおかげで商品の供給が増えるというメリットがあるとしても、その価格では買えない人びとへの負担も考慮に入れなければならない。裕福な人びとにとって、嵐のさなかに高騰したガソリン代やモーテル代を支払うことは腹立たしいかもしれない。だが、つましい暮らしを送る人びとはこうした価格によって真の苦難を強いられることになる。(中略)
 第二に、特定の状況下では、自由市場といっても本当に自由なわけではないと、彼らは主張する。クライストが指摘するように「切羽詰まった買い手に自由はない。安全な宿泊施設のような必要不可欠なものの購入に選択の余地はないのだ」。家族とともにハリケーンから避難している際、法外なガソリン代や宿泊費を支払うのは実際には自発的な取引ではない。それは強要に近い何かである。

第1章 正しいことをする Page.13-14

このようにサンデル教授は対立する2つの見方を概観した上で「さらにもう一つの論点について考えてみる必要がある」と提起します。この先の分析、真の論点の見極め、知識を交えた推察の道筋がとても心地がいい。思わず「…にゃるほどーー!」とうなってしまいます(笑)。

 多くの一般市民が便乗値上げ禁止法を支持するのは、幸福とか自由というより、もっと直感的な理由があるからだ。(中略)
 とはいえ、便乗値上げに対する憤りは感情に任せた愚かな怒りなどではない。それは、真剣な検討に値する道徳的議論を指し示しているのだ。(中略)この種の憤りは不正義に対する怒りなのだ。(中略)
 これは美徳をめぐる議論と呼んでいいだろう。

第1章 正しいことをする Page.14-15

一方でこの美徳という理念にも反論はあります。

 美徳をめぐる議論にとまどう人もいる。便乗値上げ禁止法を支持する人にもそういう人は多い。なぜなら、美徳をめぐる議論は幸福と自由に訴える議論よりも独善的に感じられるからだ。(中略)
 なにが美徳でなにが悪徳かを判断するのは誰なのだろうか。多元的な社会の市民はそうしたことに反対するのではないだろうか。美徳に関する判断を法律によって押しつけるのは危険ではないだろうか。これらの懸念に直面すると、美徳とか悪徳とかいった問題について政府は中立であるべきだと、多くの人びとは考える。

第1章 正しいことをする Page.15-16

サンデル教授はここに政治哲学の重要問題を示すジレンマが生まれる、と指摘します。
便乗値上げに関する議論に続き、パープルハート勲章(名誉負傷勲章)の受賞資格にまつわる議論、記憶に新しい金融危機に際して行われた企業救済にまつわる市民の怒りを例にとったあと、このように要約しています。

 われわれはそうした問題をすでに考えはじめている。便乗値上げの是非、パープルハート勲章の受賞資格をめぐる対立、企業救済などについて考えながら、価値あるものの分配にアプローチする三つの観点を明らかにしてきた。つまり、幸福、自由、美徳である。これらの理念はそれぞれ、正義について異なる考え方を示している。
 われわれの議論のいくつかには、幸福の最大化、自由の尊重、美徳の涵養といったことが何を意味するのかについて見解の相違が表れている。また別の議論には、これらの理念同士が衝突する場合にどうすべきかについて意見の対立が含まれている。政治哲学がこうした不一致をすっきりと解消することはありえない。だが、議論に具体的な形を与え、われわれが民主的市民として直面するさまざまな選択肢の道徳的意味をはっきりさせることはできる。

第1章 正しいことをする Page.29

今まで自分の見解を分析することなどは多くの人が無意識のうちにもしていることでしょう。しかし、ここまで詰めて「議論に具体的な形を与え、われわれが民主的市民として直面するさまざまな選択肢の道徳的意味をはっきりとさせ」たことはなかったのではないでしょうか?
サンデル教授の講義、受けてみたいですねえ。今からハーバード行くのもちょっと大変でしょうから手軽にこの本であなた自身の「正義」を探求されてみてはいかがでしょうか?

その旅の終わり、第10章「正義と共通善」の中、335ページからの道程は感動を伴うものです。「共通善」、それがサンデル教授の提出するひとつの視点です。今までにその視点はなかったですねぇ。どんなものなのかは読んでのお楽しみ、ということで。

最後に僕の考えを含めると、第5章のカントに関連する一連の「義務としての道徳」に非常に興味を覚えます。それがどんなものなのかはここでは触れませんが、実に興味深い。
僕は思うのですが、「税」というのはまさにカントの示す「義務的道徳」ではないでしょうか? そう考えると税としての労働力の提供も成り立つわけです。最終章には「犠牲」と「奉仕」についても触れられていますが、公共サーヴィスの運営と提供をそれで賄おうとするのは、将来の社会、市民生活を支えるひとつの形になり得るのではないかと。サンデル教授の提案のひとつであるように富裕層は「公民的生活基盤の再構築」に投資(逆から見れば課税)し、加えて貧しい人びとはその運営に携わる。そこに市民コミュニティはより生まれやすいと思うのです。教授、どうですか?

「面白い意見だ、君の名前は?」

マイケル・サンデル著:これからの「正義」の話をしよう
マイケル・サンデル著:これからの「正義」の話をしよう いまを生き延びるための哲学
ISBN: 978-4-15-209131-4
e-hon[e-hon.ne.jp]
bk1[bk1.jp]
HMV[hmv.co.jp]

  • Posted at 21:42 on Aug 02, 2010
  • | (Closed)

続・「自己」に寄り添うことが「らしさ」を再創造する

「自己」に寄り添うことが「らしさ」を再創造する の続き。
紹介した新聞のコラムの続きが掲載されていたので引き続いて。今回は主に男女関係について取り上げられていました。

日経新聞2010年7月13日「草食系男子へのまなざし」
日経新聞2010年7月13日「草食系男子へのまなざし」

「草食系男子のマインドの根本にあるのは、徹底した対等感覚である。」というのは草食かどうかは知りませんが確かにその通りですね。
誤解を恐れずに言ってしまえば、僕にとっては男女の違いなんてありません。基本的に「人」としか見ていない。だから逆に、「性差」をそのまま表に出したシステムには激怒に近い不快感を覚えます。女性専用車両とか映画館の女性優遇料金制度、飲食店の女性と記した少量メニューなどです。同じ仕組みが男性にも用意されていればいいだけの話なのですけどね。メニューなんて「女」など関係なしに「少量・ミニ・ライト」などと表現すればよい。

それぞれ個々人のセクシャリティはあくまでもセクシャリティに過ぎず、生活の中での付き合いに男女の差はない、というのがこの「徹底した対等感覚」の示すところでしょうか。
# まぁ実際の生活の中では異性の既婚者とは距離を置く、などの気は遣いますが。自分達だけの問題じゃないしね。

尤も、こういう考え方を「快く思わない」というのもよく分かります。当然そうだろうと思っているところで「は?」みたいな反応を示されたらそりゃ頭に来るでしょうね(苦笑)。
結局のところ、「人」である前に「男/女」であるか、「男/女」である前に「人」であるか、の違いに思えます。もちろん価値観の問題として。

プラトンの「饗宴」に出てくる、アリストパネスの話に人間の起源の物語があります。(Wikipedia
もともと人は今で言う2人で1人だった、というものです。頭が二つあり、腕が4本あり、といった。そして性は3種類あった。「男男」と「男女」と「女女」の3種類。でもある時神さまが怒って彼らを半分にしてしまった。その結果、人の性は2種類、「男」と「女」になったというものです。それで人は別れてしまった自分の片割れを探し求めて生きている、というお話。この話は村上春樹さんの「海辺のカフカ」にもちょっと出てきます。
たぶんこれで言えば僕は古代の「男女」に近い形なのでしょう。一連の記事の“草食系”と呼ばれる人々もおそらく自分自身にも相手に対しても「男」か「女」かなんて意識することは少ないのではないでしょうか。セクシャリティはあるけどそれはそれ、普段は関係ないっしょ、というような。

「新時代の恋愛のスタイル」、きっと「恋慕」より「共鳴」というものがキーになるのではないでしょうかね。
それに恋愛なんてしようと思ってすることじゃないですしね。なるようにしかならないんじゃないですか。(棒読み
でもひとつだけ思うのだけど、そんなに恋したいですか? たぶん逆に「なぜそんなに興味ないのか?」と思われるのだろうけど。「恋したい/したくない」ではないのです。「どうでもいい」のです。たとえで言えば173日後に雨が降って欲しいか?という問いに近い。どっちでもええがな!(笑)

「自己」に寄り添うことが「らしさ」を再創造する

この一年ほどでしょうか、「草食系男子」という言葉を目にするようになりました。個人的経験則として「~男子」「~女子」という造語にろくなものはないので調べもせず「ヴェジタリアンが流行ってるのか?まぁロハスとかも流行ってるしね」と思っていたのですがどうやら違うらしい。
先日読んだ雑誌、「Courrie Japon」8月号にこんな説明がありました。

オオタニ・タクヤは、米国の名門ビジネス・スクールでMBAを取得することに憧れている。だが彼は、来年東京の大学を卒業したら、米国ではなく日本の大学院に進学するつもりだ。
「僕は草食系なんです」とオオタニは物憂げに言う。“草食系”とは、ストレスを避け、リスクを管理し、庭先の草を食んで満足しているような人を指す流行の表現だ。

Courrie Japon8月号「世界が見たNIPPON」
ハーバード入学者がたった1人に…留学を目指さなくなった若者たち(ワシントン・ポスト)

なるほど…と思っていたら母から「あなたのことを思い出した」と新聞の切り抜き。そのものずばり“草食系”について書かれていてなかなか良いコラムだったので掲載。(同じ経緯のCreative Classについてはこちら

題は、「『男らしさ』からの解放」。

日経新聞2010年7月6日「『男らしさ』からの解放」
日経新聞2010年7月6日「『男らしさ』からの解放」

あ、これ俺だわ。というか時代がやっと自分に追いついてきたんだ(笑)。

冗談はさておき、僕が思うにこういう人、今でこそ「草食系男子」などと表現される人は昔もいたと思うのです。料理が好きで、手芸が好きで、花が好きで、身の回りのことは自分で楽しみながらやり…といった。
でも時代の価値観とかタイミングによって埋もれていた。こうして雑誌や新聞に取り上げられることもなく、ひとつの生き方として紹介されることもなく、せいぜいが「女々しい」とか「男なのに」とか言われるのが関の山。現に僕も言われてきました。
でも僕にもし「才能」と呼ばれるものがあったとしたら、それは「自分の価値観を曲げない」ことでしょうね。誰に何と言われようと、冷やかされようと、女子に馬鹿にされようと、自分の価値観は偽らなかった。だから正直、「草食系?ハァ?今更何言ってんの?キャベツでも食ってろ」という感じなのですが(笑)、こういうのがそこそこ広く受け入れられるようになって、そういう価値観を持つ若者がイレギュラーな人種として嘲笑の的にならないならいいことだと思います。そんなつまらない人の評価で自己否定の思いをする事なんてないですからね。

そしてもっと深く考えてみると、この時代にこういうのが出てきたのは必然だとも思います。現代は「世界が狭くなった」と表現されるように自分の影響範囲(授受問わず)は拡散の一途を辿っているわけですが、そうすると重力と同じようによほど「自己」をしっかり保っていないと膨張の力に負けてバラバラになってしまいます。
「自分の居場所がない」というのも「居場所がない」というより「自分がいない」という感覚がより近いのではないでしょうか? 自分が何者なのか分からないんですよね。もしその先まで行ってしまったらもうアウト・オブ・コントロール。悲劇を覚悟しないといけないかもしれません。僕もその先へ行ってしまったことのある人間なのでそこがどういう世界なのか僕なりに分かります。
自己を自覚する代わりに周りの流れに乗れればそれでもいいのですが、それにしては今の流れは命をも奪いかねない激流。それに身を委ねよというのも「冗談は小説だけにしてくれ」と言いたくもなるでしょう。流れに乗れなかったら「負け」とか勝手に判定される時代ですしね。(そもそも勝負などした覚えはないぞ!)

こう考えると、人間の本能として自己に向かうのは当然の流れに思います。自分を引き裂こうとする力に文字通り必死に抵抗する圧力が自分の奥深くへかかっていく。そうなれば「自分らしさとはなにか?」という問いが生まれるのも当たり前。以前と違う点があるとすれば、今やこの問いは人生の「オプション」ではないこと。生死に関わる回答必須な問いであることです。

つまり、この時代になって自己主張する人が増えたのではなく、逆だと思います。
時代が「自己」を引き出させたんです。「お前は誰だ?」と。「お前らしさとは何か?」と。世界は常に問いかけ続ける。生き残るためには僕らは答えなくてはならない。「自分はこうだ」と。
「自己」に寄り添い、「らしさ」を再創造する。何のために?と言われれば「生きるために」なんですね。

要するに僕が言いたいのは、“草食系”などと言われても、僕らが向かおうとしているその先、目標への執念。自分と向き合い、対話し、見極めようとする姿勢。それらはある意味ではとても攻撃的だということです。
「穏やか」?「目の前の状況に満足」?ふん、寝言は寝て言ってくれよ、ベイビー。

静かなる闘い。
願わくば同士のそれぞれに、決して見捨てなかったその人だけの悟りがこの先の未来のどこかで待っていてくれますように。そしていつか本当の穏やかな朝を迎えられますように。グッドラック!
…まったく楽じゃないよな!!(と同意を求める

  • Posted at 02:54 on Jul 13, 2010
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