100年に一度?

溜まった新聞の切り抜きをスキャニング。
最近の記事で良かったのを紹介。’09年4月23日付の日経新聞の「あすへの話題」、書き手は画家の安野光雅さん。

「100年に一度の不況」

誰が言い出したのか「今回の不況は百年に一度の不況だ」と盛んに言われている。こういった無責任な発言に私たちは非常に弱い。脅かされるだけで、その言い分の根拠がただせないが、百年と言わず、わずか六十年余りさかのぼっただけで、恐るべき敗戦の日がそこにあったではないか。

もし誰もが「百年に一度」を信じているとすれば、その後の日本人がすっかり平和ボケしてしまって、遠因はアメリカだとしても、今日のような不況への抵抗力を失ったのではないかとさえ思われる。

わたしは敗戦後の日本を忘れない。とにかく国土は一面の焼け野原だった。食料はもちろん、衣料もなかった。子どもたちはおなかをすかせ、頭にはシラミが巣くっていた。活気があるのは闇市だけで、希望はあったが、新円切り替えやインフレでお金はなかった。

あの時代と不況と言われている今の世の中をくらべてみるといい。不況だというのに、食料は巷に満ちあふれ、着飾った男女が町を闊歩し、六十年前は米軍の車だけだったのに、売れていないはずの車で道路は渋滞している。テレビは飽食の料理とお笑い番組のない日はない。

校庭に芋を植え、その蔓を食った世代の人間は、「百年に一度の不況」という言葉を疑う。人災を天災に見せかける口実ではないかと勘繰りたくなってくる。

実はつい先日、近所でガマガエルを見た。やはり季節は巡っている。田園は新緑で、わたしの旧友は芋や豆を作り、我が物顔に跳梁する猪や鹿と百年に一度の戦いの中にいる。陶淵明の「帰りなんいざ田園将に蕪れなんとす(※)」を連想する。

※「帰りなんいざ田園将(まさ)に蕪(あ)れなんとす」
陶淵明(とう えんめい)の有名な漢詩、「帰去来の辞」の冒頭部分の一節。
「さあ、もう故郷へ帰ろう/田園は荒れ果てようとしている」といった意。
分かりやすい解説はこちらをどうぞ。

あくまでも「100年に一度の不況」は世界的規模の不況(対象は1929年発の世界恐慌)であるのでしょうが(私の記憶では「100年(一世紀に一度か二度)」と言い出したのはFRBだと思います。)、それならば日本人はそれにならうのではなく、「私たち日本人にとっては、こんなのはまだましな方です、敗戦の日を思い出してください。あの日々に比べれば、私たちには食べ物もあるし、身を覆うものくらいはある。今苦しいのは世界どこも一緒です。こんなのはまだ地獄じゃない、希望をもって解決案を出し合おうじゃありませんか」と言えばいいのです。
こういうちょっとした気の持ちようで将来を見る目は変わると思うのですが、ちょっとしたことだからこそ難しいのでしょうかね。

次のも同じ安野さんの文章。’09年5月7日付の記事から。

「黒猫と人生」

絵を描いていて、うっかり墨を落とすなどの失敗をすることがある。そういうときはあわてないで、たとえばそこに黒い樹を一本描くとか、黒猫が横切る図を描くなどしてごまかすことができる。

ところが、一日くらいおくと、その黒猫に目がいく。目をやるまいと思う。この場所が墨を落とした箇所だと知っているのは自分だけなんだし、そこに黒猫を描いていけない理由もない。まあ第三者にはわからないだろうと納得する。

また一日ぐらいすると、どうもその黒猫が気になる。また数日たって、絵はだんだんと進行し、だいぶんできあがった感じになってくる。それでも黒猫に目がいく。気にしていないようで気にしているな、と自問自答する。そのころには黒猫にしたことを後悔しはじめているのだ。

油絵なら、削り取ればいい。しかし失敗したという自分の記憶は消せない。どうすればいいかという話になるが、表面糊塗(こと)しないほうがよかったと思いはじめ、結局絵は失敗の道をたどる。

絵ができあがると篆刻(てんこく)印を押すことがあるが、一見簡単そうなことでも、逆さに押したりずれたりすることがある。上気しているのである。堂々と描いた絵が篆刻のために水の泡となるかと見える。中国の名画の中にもそんな失敗があるので、「そんなときはどうするのか」と、かの国の篆刻家に聞いたら、押した瞬間が「一期一会だ」と言う。「失敗もまた経過の一こまなのだ」という意味にとれた。失敗は絶対にゆるさない、となると生きていけない。

許す。それはつまるところ人生なのだ。多くのものごとがそうであるように、絵の中もまた人生なのである。

私が思うに、失敗とは奇跡の一つだと思います。思いもよらない結果なのだから。多くの場合、「やりたかったことができなかった」から「失敗」という判断になるのですが、それが「いや待てよ、これはこれでいいではないか」と「奇跡」という価値をそれに与えられるかというところなんだと思います。これはもちろん、産業での機能面ではそうも言っていられないですが、人間関係の中ではこういう見方というのは大事なのではないか、と思います。自分自身で「これも人生」と割り切るのは今の時代難しいので、周りの人が言ってあげるのが大切なのではないでしょうか。

「これなに? 墨落としちゃったの? へえ、おもしろいねえ、まるで黒猫が飛び跳ねてるみたいだ」と。
私自身、人にはそう言えますが、自分にはなかなか言えません。「完璧主義ねえ」とよく言われます。(笑)

樹影

夕闇の百日紅

濃紺に その身渡す 百日紅(さるすべり)
縮み凍みるは 枝か我が手か

うーん、歌って難しいねえ。こういう冬の歌にあえて別の季語をもってくるのは伝統的にはどうなんでしょうね。「百日紅」自体は夏か秋の季語っぽいですが。

これも百日紅。枝に残っているのが実。
この時期、夕焼けがとてもきれいなので、ひさしぶりに公園に撮りに出かけました。

Read the rest of this entry »

焦り度→20焦

→19→20→21→
新成人のみなさん、おめでとう。

なにか書こうかと思ったのですが、私自身「死ぬまで18」と言っている身なので(笑)うまく言えないんですね。
かわりに最近書いた詩を載せておきます。

「日々」

にわか雨の においのような
夏の午前の 陽射しのような

絵に描くほどに鮮やかでない 淡い虹のような
記憶の残り香に触れる 秋の午睡のような

風にふるえる 露草のような
絶え間なくうつろう 水面(みなも)のような

手をのばすほどに遠さを知る 星々のような
いつまでも目にこびりつく 光の軌跡のような

醒めない夢を 見つづけているような
いつかどこかで 見た景色のような

焦るな、と言われても焦っちゃうよねえ。自分の経験から言うと、そういうときははっきり言って焦るしかないです。
今書いていて気づきましたが、「焦る(あせる)」って「焦げる(こげる)」と同じ漢字なんですね。分かるなあ。僕なんて灰になりかけてますよ。焦げるくらい全然どうってことないです。心ゆくまで焦げてください。

20焦? ふふん、まだまだ!

消化の意味

日経新聞、10/23付夕刊の記事「あすへの話題」の文章がとても良かったので紹介。
タイトルは「消化の意味」、執筆者は分子生物学者・福岡伸一さん。

私の研究対象は膵臓(すいぞう)である。
さて膵臓は何をしている臓器でしょう? 理系学生でもしばし言葉につまる。インシュリンを作るとの答えがせいぜいだ。
しかし、膵臓の細胞のうちインシュリン合成を担っているのはほんの数パーセントであり、残りのすべての細胞はあるタンパク質の大量生産に従事している。その生産量たるや泌乳期の女性の乳腺よりも多い。
答えは消化酵素の生産、である。膵臓が日々、黙々と消化酵素を作ってくれているおかげで、きちんと消化が行われ、栄養素の吸収がなされる。

そこで私はおもむろに次の質問に移る。消化は何のために行われるのでしょうか?

小さくしないと吸収しにくいから? 現象面だけを見るとこの答えでも間違いではない。が、消化のほんとうの意味は別にある。
情報を解体するため、消化は行われる。例えばタンパク質。タンパク質はアミノ酸の連結による高分子で、アミノ酸は個々のアルファベット、タンパク質はそれによって書かれた文章にあたる。そして全ての生物は、固有の文法と文体に従って構成された文章からなる一大物語といえる。

食物とは、それが動物性のものであれ、植物性のものであれ、もともと生物体の一部であったものだ。そこには持ち主固有の情報が満載されている。
この情報がいきなり、私の身体の内部にやってくると、私の身体特有の情報系と衝突、干渉、混乱が生じる。これを回避するため、消化酵素は、物語と文章を解体し、意味を持たない音素のレベルに還元する。そのアルファベットを吸収して、私たちは自分特有の物語を再構築する。
実にこれが生きているということなのである。

普段、人の文章に心を打たれることってあまりないんだけど、これは感動した。素晴らしい文章。
中学校の国語の教科書とかに載せてもいいと思う。というか僕が中学時代に読みたかったな。

今日の名言

 『無限なものは二つある。“宇宙”と“人間の愚かさ”だが、
 前者については自信がもてない。』

 アルベルト・アインシュタイン

  • Posted at 21:02 on Jun 29, 2007
  • | (Closed)