柚子 2009

柚子の木を購入
この冬、柚子の木を購入しました。丈は50センチほどですが、すでにたくさん実がついているものだったのでさっそく柚子を楽しんでます。

日本の柚子には2種類あるそうで、実が大きくでこぼことしているのが「ホンユズ」と呼ばれるもの。「桃栗三年柿八年、柚子の大馬鹿十六年」と言われるほど結実が遅く、また毎年なるとも限らないそう。
一方、この写真の小振りでそれほどでこぼこしていない柚子は「ハナユズ」とか「一才柚子」と呼ばれるもので、問題さえなければ毎年たくさんの実をつけるそうです。Wikipediaにも触れられていました。

さっそく柚子風呂に
さっそく柚子風呂に。やっぱりこの香りはいいですね。

うまく育てられるといいな。

2009銀杏並木@横浜・日本大通り

2009銀杏
11月26日に日本大通りへ銀杏を見に行きました。前日の夜に、NHKの地方版ニュースにて日本大通りの銀杏が映し出され、見るなら今週中だな、と。
実際、見事な黄葉具合で絵を描いている人や写真を撮っている人が多かったです。

日本大通りは神奈川県庁や、横浜スタジアム、大桟橋や山下公園がすぐそばにあります。以前撮った開港記念会館もここ。
古い建物がけっこう残されていて、情緒ある街です。

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ライトブロガーから見たmixiとTwitterの使い道

2009年の日本でホットになったウェブサイトと言えば、一位http://twitter.com/、二位http://www.bing.com/ではないでしょうか。(自分調べ)
Bingは大変気に入っていますが(デフォルトサーチャーを変えてもいいかなと思ってるくらい)、今回はTwitterについて。

日本でmixiは大ヒットしましたが、mixiと同じようなユーザ層をTwitterが獲得するかというと、それは難しいだろうなと思います。そもそもそんな事態になる必要もないし、なってほしくもないのですが(笑)。

mixiが大ヒットした理由を考えてみると、一つは日本の独特な携帯電話市場(製品市場ではなく、その上のサーヴィス市場)、そして 携帯電話>PC という人々が若年層にとりわけ多いこと、「クローズな環境(mixi)ならオープンなウェブより安心」といった妄想が少なからず関係したような気がします。専門家ではないので私個人の印象に過ぎませんが…。
私はmixiにはまったく馴染めませんでした。未だ自分にとってのmixiの存在意義を見出せずにいます。ブログやっていると、ほんとにmixiに書くネタ(話題)がないんです! 内輪ネタというのは持ち合わせていないので、ブログとの差別化が図れませんでした。将来50mm厚防弾ガラス張りのオールシースルーな家に住みたいと思っているような人間なので話すことは自分から話すし、話さないことは最初から話さない。見たければ見ればいいし、見たくなければ見なければいい。その中に「この人には話すけどこの人には話さない、この人には見せるけどこの人には見せない、mixiには書くけどブログには書かない」という区別はないのです。自分で書いててもよく分からない例え話です!
それでもアカウントを残しているのは、mixi内でのみ連絡可能な人があまりに多いのでその窓口として置いてある、という感じです。(そろそろそれも切ってもいいかもしれない、と思い始めてもいるのですが、正直なところ。)
今までアカウントは公開していませんでしたが、その意味もないので書いておきます。

【July 3rd, 2011 追記】
2011年6月に退会しました。

根っからのWorldWideWebな頭になっている人間からするとmixiというのは大変使い道に悩む媒体なのですが、Twitterも別な意味で使い道が難しい媒体に思えます。

http://twitter.com/ichijo
Twitterというのは「小鳥のさえずり(つぶやき)」をモティーフにした登録型ウェブサイトで、140字(全角/半角問わず)という短いセンテンスでつぶやいていくサイトです。小鳥がチュンチュンとさえずっているイメージです。
私が始めたのは2008年後半からですが、しばらくの間はTwitterの使い道に困りました。なにをつぶやくのかが分からない。「ブログに記事に書くまでもないたわいもないこと」を書くにも、わざわざPCの前に座ってつぶやくというのも面倒くさい。
それが少し変わったのがiPhoneを手にしてから。Twitter用のクライアントアプリケーションがたくさんAppStoreで出ていますが、私はそんなヘヴィなTwitterユーザではないので無料のEchofon(当初の名称はTwitterfon)を使用しています。
これでいつでもどこでもつぶやけるようになったのでTwitterも日常的に使うようになりました。(もちろんiPod touchでもオンラインなら可能。)
# よく知らないのですが、いわゆる携帯電話向けにもTwitterツールがあるらしいです。

Twitterのいいところは、
◆ブログを持っていても書くことがかち合わない(内容ではなく、文字数などからそもそも書くスタイルが違うから)。
◆ユーザがウェブ慣れしている人が多い(印象としてウェブ・PCリテラシーが基本的に高い人が多い)。
◆絵文字(not AA)がない。
◆サーヴィス構造がとてもシンプル。

以上のことから使用している中でストレスになることがほとんどありません。自由気ままに垂れ流しているだけでいいのがそもそもの「つぶやき」ですから、とても気楽です。
mixiだと対象者が限定(=マイミク)されるわけで、彼らをまったく無視したことはなかなか書きにくい。例えば、PCを持っていないマイミクが多い中で「Ubuntu 9.10はどうなんだろ」とか「SSDのTrim対応ってこういうことらしい」とか「けいおん!スキンのためだけにGoogle Chrome使ってる」とか書くのも気が引けるわけです。

ウェブの発展の過渡期でmixiのようなクローズなウェブサーヴィスが隆盛するのは自然な流れですがその先、5年~10年といった中長期的なスパンで見ると立ち位置が難しくなっていくのではないかなぁ、と2006年の登録当時思いましたが、その後mixiは招待制でなくなったりして少しずつ線引きがなくなってきました。あとは携帯電話ユーザの囲い込みでしょうが、あと3年もすればいわゆる「携帯サイト」「PCサイト」の区別などなくなっていると思うので携帯電話向けサイトを基本としたビジネスモデルは難しくなるんじゃないかな、などと予想しています。携帯電話業界の人たちは今後武器になりうるのはその日本中張り巡らされた回線網だけなので、その財産を生かした次のビジネスモデルをさっさと固めた方がいいと思います。でないとイー・モバイルやWiMAXとの圧倒的優位性が時間が経てば経つほど損なわれてしまうのでは。

ずいぶんずれましたが、一言で言えば「ブログをそこそこ書いてる自分としては、mixiは使いにくいけどTwitterは使いやすい」というお話でした。
同じくTwitterの使い道に悩んでいる人はとりあえずPicolog(ピコログ、ウェブログに対して)としてつぶやいてみるのもいいかもしれません。

  • Posted at 02:57 on Dec 14, 2009
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火初め’09-’10

火初め
さきほどストーブをついに出しました。スーは早速ストーブの真ん前で居眠りしています。
火色(ひいろ、緋色)って好きです。できたらこの冬は火色のWordPressテーマでも作ろうかな。

非公開の日記用ブログによると去年は11月8日にストーブを出したとのこと。ちょうど3週間ねばりましたね。
本当は今年はストーブは我慢しようと思っていたのですが、悔しさを感じつつ出してしまいました。意志が弱い。ついでに寒さにも弱い。orz

冷房と同じで暖房も扇風機と併用すると効率がいいと聞いたので、扇風機も出そうかと思います。夏が終わって片付けてしまったのですが…。(暖房の場合は暖かい空気が上に行くので、扇風機は天井に向けて空気をかき回します。)

さてさて。換気に気をつけなくちゃね。

  • Posted at 19:07 on Nov 29, 2009
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人生の言葉

人生の言葉
人生の言葉
ISBN: 978-4-284-80041-9
e-hon
bk1
HMV

本屋で見つけて少しパラパラとめくり、気に入ったので購入。1050円。
これが大変良かったです。編集も丁寧なので(余計なものが一切ない。「言葉」に集中できる。)おすすめです。
特に胸に残った言葉を紹介。

考えるままに生きるべきである。
さもないと、生きているままに考えることになる。

– ポール・ブールジェ(1852-1935, フランスの作家、批評家)

考えるがままに生きる、というのは無理のない生き方のはずなのに、なんだかとてつもなく難しいことのように思えます。

雨だれが石を穿(うが)つのは、激しく落ちるからではなく、何度も落ちるからだ。

– ルクレティウス(BC99?-BC55?, 古代ローマの詩人、哲学者)

冴えてる人だなあ、と思ったら紀元前の方ですか…。

悟りとは平気で死ぬことではない。
平気で生きていくことだ。

– 正岡子規(1867-1902, 明治の俳人、歌人)

深い。深すぎる。自分はまだ悟りには至っていないようです。

人生はクローズアップでみると悲劇だが、
ロングショットでみると喜劇だ。

– チャールズ・チャップリン(1889-1977, イギリスの映画俳優)

この人生も、世界の人生も、喜劇にみえるときがくるといい。

一夜にして成功を収めるためには20年かかる。

– エディー・カンター(1882-1964, アメリカのコメディアン、歌手)

にやり、としてしまいました。

人間は醜い、だが人生は美しい。

– ロートレック(1864-1901, フランスの画家)

おそらくは、「人生は美しい」に至るまでにものすごく長い道のりが必要だったのではないか、と思いました。

光は暗闇を追い払う。光を見て、その美しさについて考えよ。一度目を閉じ、再び見える光は最初のものとは違う。
前に見た光はすでにそこにはない。

– レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452-1519, イタリアの画家、彫刻家、建築家)

僕が不思議なのは、こういう感覚が500年の時を経ても変わってない、ということです。失礼ですが「レオ、なんで知ってるの?」という。
一度直接話をしてみたかった。たぶん、なんの説明もいらずに、なんの例えもいらずに、話ができるだろうと思う。「僕思うんですけど、闇の真の姿って光ですよね」「そうそう、闇という光ね」みたいな。
…同時代のやつらがうらやましい。

不遇はナイフのようなものだ。
刃をつかめば手を切るが、柄をつかめば役に立つ。

– ハーマン・メルヴィル(1819-1891, アメリカの作家)

ううむ、素晴らしい。

古いものを喜んではならない。
また、新しいものに魅惑されてはならない。

– ブッダ(生没年不詳, 仏教の開祖)

テクノロジーの発達という進捗とその弊害に悩む現代にこの言葉は鋭く響きますね。「なるほど」と思わずつぶやいてしまいました。

腹が立ったら、何か言ったり、したりする前に十まで数えよ。それでも怒りがおさまらなかったら百まで数えよ。
それでもだめなら千まで数えよ。

– トーマス・ジェファーソン(1743-1826, アメリカの政治家)

問題は、「怒りがおさまるまで数えられるか」ではなく、「数えようと思ったときにはすでに何か言っていた(していた)」ということだと思うのです。そして、「そのときすでに」という無自覚の行動こそ、人間の弱みだと思うのです。僕はこれを完全に、完・全・に・統率したい。その意味で「人間を超えた存在」になりたいと常々思っています。これは真面目な話、自分の人生で超える「べき」壁の一つだと捉えています。これを超えることができなければ、僕が生きた意味の一つはなくなることになるし、人の親になる資格もありません。

人間はみな、自分の見たいものしか見ようとしない。

– カエサル(BC100?-BC44, 古代ローマの政治家、軍人)

今でもそうですよ、と伝えたらカエサルさんは「マジかよ…」と言うのでしょうか。「やっぱり…」と言うのでしょうか。そこに興味がありますが、僕はたぶん後者だと思います。そのあたりの本質は見抜いている人でしょうね。

壁が横に倒れると、それは橋になる。

– アンジェラ・デービス『アンジェラ・デービス自伝』(1944-, アメリカの政治家)

なるほど。高ければ高いほど、遠くへ行けると。

つまり、これが死というものである。
ところで……

– 死の間際の言葉、カーライル(1795-1881, イギリスの評論家、思想家)

すげえ…。続きを聞きたい…。

今日が人生最後の日だとしても、
今日する予定のことをしたいと思うか?
「毎朝自問自答している。ノーの日が続くなら
人生の軌道修正をしなければならない」

– スティーブ・ジョブズ(1955-, アメリカの実業家、アップルCEO)

スティーブかっこよすぎ。

最初の一歩を踏み出しなさい。
階段全体を見る必要はない。
ただ、最初の一段を上りなさい。

– マーティン・ルーサー・キングJr(1929-1968, アメリカの牧師、活動家)

嫌でも目に入ってくる「階段全体」を無視することこそが一番難しいのではないでしょうか。おそらくは一段を上ることよりも。

私たちの問題は人間が生み出したもの。
従って、人間により解決できるのです。
人間社会の中で起こる問題の中で、人間を超えているものはありません。

– ジョン・F・ケネディ(1917-1963, 米国第35代大統領)

なんだかんだ言ったところで、人間のせいですものね。もっと踏み込めば、「自分のせい」。

真の道は一本の綱の上に通じている。その綱は空中に張られているのではなく、地面のすぐ上に張られている。
それは渡って歩くよりは、つまずかせるためのものであるようだ。

– フランツ・カフカ『罪・苦悩・希望・真実についての考察』(1883-1924, チェコの作家)

具体的に考えてみると、にやりとしてしまう味わい深い言葉です。

誰にも見られていないように踊れ。誰にも聞かれていないように歌え。恋をするときは、今まで傷ついたことなどないかのように振舞え。
そして、この世が天国であるかのように生きよ。

– マーク・トゥエイン(1835-1910, アメリカの作家)

何のために? おそらくは自由を得るために。

マイナスをプラスに、不幸を幸せに、涙を笑顔に。まかせておいてください。

– 坂本九(1941-1985, 昭和の歌手)

九さんになら「まかせた!」と言えるところですが、それとは別に「まかせる」ということについてそれはいいものかどうかふと考えてしまいます。自分の歴史上、「まかせた」と心から言ったことはないような気がする。下手したら口にしたことすらないかも…。九さん自身はどうだったんでしょうね。まかせられる人いたのかな。

生きるために食べろ、食べるために生きるな。

– ベンジャミン・フランクリン『プア・リチャードの暦』(1706-1790, アメリカの政治家、科学者)

この本で一番胸に突き刺さった言葉。
自分には「生きるために食べろ」の一言が大きかったです。「生きるために食べろ」ってあなた、「生きろ」っていうのは前提ですか!?みたいな…。生きるのは前提ですか。そうですか…。ちょっと衝撃的でした。
ところで今の時代、「生きるために」食べている人ってどのくらいいるんだろう。予想よりはずっと多いのかもしれない。