100円の感動をありがとう

渋谷で荷物をコインロッカーに入れようと思ったのだけど、休日の渋谷駅、コインロッカーはどこも空いてない。
歩き回ってやっとのことでひとつだけ空いてて、そこに荷物を入れて、いざ料金を入れようとしたら100円足りない!
両替しに行ってるあいだに埋まったらやだなと悩んでいたら隣にちょい派手めなおばちゃんが同じく空きロッカーを探していて、両替してくるのでちょっと見ててもらえませんかとお願いしようと思って声かけたら、「足りないの?いいわよ」と100円くれた。
えっいいんですか?と聞いたら「いい、いい」と。じゃあ両替してお返しするのでちょっと待っててくださいと言ったら「いいからいいから、私のぶんはあるから」とそのままぱぁーっとどこかに行ってしまった。

なんかとても感激した。
渋谷という街で、ろくでもなさそうな(?)若者にあっさりと100円を渡し風のように去っていったおばちゃん。
片ややっと見つけた空きロッカーを手放すのがいやで、隣で同じくロッカーを探していたおばちゃんに荷物を見ててもらおうと思った自分。
自分の小ささ・狭量さに「まだまだだなぁ・・・」と反省したとともに「自分もあのおばちゃんのようにならなきゃね」とずいぶんさわやかな気持ちになって渋谷を発ったのでした。
おばちゃん、ありがとね。

思うのだけど、人の親切に出会うと自分も人に親切にしたい!と魂に強烈な作用が働くのは人間の素晴らしい性質だと思う。
そうやって優しさとか親切とか笑顔って連鎖して広がっていくのかもしれない。
「チェーンメール」はつながっちゃうとアレだけど「チェーンスマイル」はがしがしつなげたいですなぁ。

均衡を取ろうとする自分と、それを眺めてしまう自分

高校の恩師、佐野先生のブログで語られた「デリケート・バランス」。
まさに… そこなんですよね、自分の位置も。

紹介します。

デリケート・バランス(上)
デリケート・バランス(中)
デリケート・バランス(下)

「生きること」と「食べていくこと」。

先生の言葉が強烈に響いたので引用させていただきます。

(芸術家にとって)「生きること」と「創ること」は一致しているのであって、そこに「食べること」への意識が介入する余地は無い。私の「AとBとのバランス」など、芸術家にとっては「生ぬるい戯言」だと思い知らされた。(中略)
あれから40年…私は今なお「デリケート・バランス」に生きている。忸怩たる思いもあるが、これもまた「自分の人生」だと思えないこともない。しかし、残された人生の時間を全て演劇創造に充てることで、あの21歳だった自分、打ちのめされていた自分に応えて上げたい気持ちもある。

正直、自分は打ちのめされ続けている気がする…。
手を抜いてるわけじゃない、全力で対峙しているつもりだけど、まだまだなのかな。まだまだなんだろうな。ゆっくり考えたい、時間がほしい、と思うのは甘えなのかなぁ。
先生の

「流されそうな川の真ん中に杭を打ち込み、それに一時しがみつきたい」が本音だった。立ち止まる時間が欲しかったのである。

という言葉、痛いほどよく分かります。

これはしばらくまたこもって考えます。
この前「考える前に飛べ」と書いたけれど、やっぱり考えてしまう。我ながらもどかしいというか苛立つというか。

「ぷらら」でメール送信不可現象

一応報告しておきます。
プロヴァイダが「ぷらら」で、ここ数日でメール送信が出来ない現象が起きている方はご参考に。

ぷららが行った設定変更によるものでした。
サブミッションポート(port587)とSMTP AUTH

ここ2日悩みに悩みました。メールソフトBecky!をVer.UPしたり。結局2ちゃんねるを徘徊してぷららスレッドにて解決。
私の場合は、メールソフトの各メールボックスのSMTPポートを上記の「587」に設定することで解決できたようです。

ところでぷららにはちょっと言いたい。

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  • Posted at 00:58 on Jul 29, 2006
  • | (Closed)

アーティストとは

20060722.gif

二十代も後半戦に突入しました。より自分にシヴィアに当たっていく所存。
いい意味でもうちょっと攻撃的になろうかと思ってます。「考える前に飛べっ!」みたいな。

さてそんな中、こんな言葉を見つけました。「そうだよな」と共感する部分があったので紹介。
雑誌 “FUDGE” でコラム “Life never ever like before” を連載されている高木正勝さんの言葉。

「アーティスト」
アーティストとは、受けとるべきものを、持てる感性で受け取り、持てる技術でそれを形に変え、他人に伝達できる人間。才能とは、受けとるべき何かがやって来た時、それを感じ、つかまえる事が出来る精神的、肉体的な体力。(中略)
いわゆる芸術家だけが、アーティストだとは 思っていない。目には見えない、耳には聞こえない、その受け取るべき何かを感じて人に伝える事が出来たなら、(中略)絵画や音楽のような芸術でなくても、それは美しいに違いない。

「個性」
「個性的であろう」とする事は、重要な事ではない。個性は生きていれば自然に生まれる。生まれも育ちも、見聞きした事、感じた事も、そして望むものも違う筈。ただ、過去に感じて来た感情にきちんと向き合うか向き合わないかで、個性は大きく変化する。魅力的な個性にもなれば、疎ましい個性にもなる。

ふむ、その通り。だと私も思います。
アーティストとは結局、「自分が受け取るべきなにか」をちゃんと感じ、それを自分というフィルタを通して外の世界にいわば再出荷できる人間、私はそう思っています。
そう考えると、別に何か作品を創っている人間だけがアーティストなのではなく、誰でもアーティストになりうるのではないかと。
つまり「アーティスト」というのはなにを生み出しているかとか、どんな才能を持っているかとか、まして技術などではなく、「生き方」ではないかと。
ただその「生き方」を選ぶなら(ときに選ばざるを得ない)、そこには日々自分の感性を磨き上げ、ときには守ることが必要になる。そして人によって感性の幅があるのも事実。

これを読んで、以前に当ブログでも触れた、銅版画家・長谷川潔さんの言葉を思い出しました。

さて、と。折り返したことだし後半戦、そろそろ行きますか!!

祈り

昨日紹介した矢野顕子さんの「はじめてのやのあきこ」のブックレットに寄せられた祈りの言葉。

矢野さんのCDのブックレットの最後にだいたい書かれる謝辞。そこに書かれていたもの。
“Dear Jehovah,”で始まります。”Jehovah”というのは神の名前です。
簡単に訳すとこんな感じかな?

私がこの厳しい音楽業界で30年間もやってこれたなんて信じられません。
それはすべてあなたによるものでした。あなたの祝福があったからです。
あなたが私にしてくださったすべてのことには、いくら感謝しても私には感謝しきることはできません。
だけど、これだけは言わせてください。
I THANK YOU.

読んだとき震えた。
どんなに大きなことを成し遂げても、これは自分の力でやったのだ、と思ってはだめなんだよね。