クラシック、テクノ、退屈な音楽

N響のコンサートへ行ってきました。(公演内容[第1566回])
ものすごくよかった。


クラシック音楽の演奏会はこれまでにも2、3回は行ったことがあると思うのだけど、今回のはある意味でとても強烈でした。
今までにない曲・演奏に出会ったわけではおそらくなく、自分が変わった(成長?)のだと思います。これはまた来たいなと思いましたよ。

自分はクラシックは素人なので予備知識もまったくないまま正直に感じたことを書いてみたいと思います。
まず、演奏始まってのファースト・インプレッション。最初の音が出て0コンマ何秒かの感想。

“え…?(どこから音出てるの?)”

まずこれにびっくり。
どういうことかと言うと、あの“木でできた茶色いもの”(ヴァイオリン)からこんな音が出ることが信じられない。(笑)
TVやCDではもちろん聴いていたけれど、生のヴァイオリンってこんな音なんだ…。
いつもはスピーカー「から」音が出ている。だけど、これはどこからも出ていない、そこに音が「生まれる」瞬間。そんな感覚。まずそれに衝撃。

それにしても「スペイン狂詩曲」の第一楽章(?)、すごくきれいですね。
今寝かせてる小説の冒頭ともろに情景が重なって個人的にとても感動。

今回2番目にやったモーツァルトのが一番感じるものが多かったのですが、強く感じたのは、「これ、テクノだよな」と。
自分はテクノ大好きなのですが今日、新たなクラシック音楽観が生まれました。
「クラシックはテクノである」。時代的には逆だけど。(笑)

クラシック音楽って難解、というイメージがあるけれどそれは作られたイメージだったんだと気づきましたね。
世間的にクラシックは堅苦しくて難しい、と言われていたり、妙に曲を解釈・評論したがる愛好家がいたり、というところから「クラシック音楽は難しいもの」という基本概念が植えつけられていた。それが引っこ抜けました。

見方(聴き方)を変えれば、クラシックって実はものすごく分かりやすいものなのではないか、と。
なぜならそれは感覚だからです。分かる分からないの問題ではない。

話が前後してしまうけれど、今日のコンサートは、1番目にラヴェル(「逝ける王女のためのパヴァーヌ」の人)、2番目にモーツァルトが演奏されたのですが、この違いがとても印象的でした。

ラヴェルのはとても情景的な音楽だった。自分自身が小説のシーンを重ねたように、具体的なイメージがそこからは感じられた。
たとえば、夜明けの静かな空気、風の流れなど。絵で言えば、クロード・モネやルノワールのような優しい情景。

そしてモーツァルトは、と言えば自分にはさっぱり具体的な情景が浮かんでこなかった。それよりもそこにはただ、「美」そのものが流れていた。
もしかしたらモーツァルトは、なにか美しいものを見たり聴いたりして感動したものを自分のフィルターを通して抽象的なものに変換したのかな。
絵で言えば、なにが描いてあるのか一見、まったく分からない抽象画のよう。だけどそれが美しいものであることは感覚的に伝わってくる。自分はモーツァルトの音楽からはそんなことを感じました。

そのラヴェルとモーツァルトの違いがとても印象的だった。どちらもとても美しかった。
ということを踏まえて、モーツァルトのを聴いてて「これって、テクノだよな」と思ったわけです。テクノも感覚的な音楽だから。「この音がなにを意味している、表している」なんてあまり考えない。
ただ感覚的に、かっこいいか、トリップできるか、頭をからっぽにできるか、気持ちいいか、ただそれだけ。
モーツァルトも(重ねて言うけど自分にとっては)言葉では説明できない美しい音楽でした。(だいたい美しいものを見たときって言葉が出ない。)

そしてもうひとつ気づいたのは、退屈な音楽の素晴らしさ。
「退屈」というものをどう捉えるかで意見は分かれるだろうけれども、私は「退屈」、大好きです。
テクノだってやばいくらい退屈な音楽です。(たとえばUnderworldの”Dark & Long [215Miles Mix]”なんて素晴らしく退屈。)

この点で作家、村上春樹は自身の作品でとても興味深く語っています。「海辺のカフカ」という長編小説なのですがこんなふうに述べられています。

「フランツ・シューベルトのピアノ・ソナタを完璧に演奏することは、世界でいちばんむずかしい作業のひとつだからさ。とくにこのニ長調のソナタはそうだ。とびっきりの難物なんだ。(中略)
「ロベルト・シューマンはシューベルトのピアノ音楽の良き理解者だったけど、それでもこの曲を『天国的に冗長』と評した」(中略)
「どう、退屈な音楽だろう?」と彼は言う。
「たしかに」と僕は正直に言う。
「シューベルトは訓練によって理解できる音楽なんだ。僕だって最初に聴いたときは退屈だった。君の歳ならそれは当然のことだ。でも今にきっとわかるようになる。この世界において、退屈でないものには人はすぐに飽きるし、飽きないものはだいたいにおいて退屈なものだ。そういうものなんだ。僕の人生には退屈する余裕はあっても、飽きているような余裕はない。たいていの人はそのふたつを区別することができない」

そう、退屈でないものには人はすぐに飽きるし、飽きないものはだいたいにおいて退屈なもの―。
誤解を恐れずに言うならば、とても上質な退屈を味わうことができましたね、今日は。感謝。また来たいなぁ。

あと最後に。
食べたくなるような音ってあるんですね。思わず大きく吸い込んで、もぐもぐと咀嚼してしまった。うまかった。

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終演後のNHKホール。終わるやいなや蜘蛛の子を散らしたように客が一目散に帰っていったのには呆然…。

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自分はのんびり残り、トイレで記念撮影。

  • Posted at 23:29 on Apr 15, 2006
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