「新世界より」 基礎講座

新世界より

2012年10月より半年間にわたって「新世界より」と題するアニメが放映されました。2008年1月に発売された同タイトルの貴志祐介氏による長編小説を原作としています。

新世界より|テレビ朝日[tv-asahi.co.jp]

私は原作も知らずにまったくの予備知識ないままに視聴したのですが、いやはや壮絶な作品でした。ここまで最後の最後で「やられた!」な作品はちょっと今までになかった気がします。

視聴時の感想をまとめるとこんな感じ。

初め:なんかスゲー!
序盤:よく分かんないけどなんかスゲー。
中盤:一体何がどうなってるんです?
終盤:おいおいなんかすげえ展開になってきたな!
最終回:うおおおおおおおおお!!! 原作読むわ! すげぇ! スタッフの皆さん素晴らしい作品をありがとう!

なんか馬鹿みたいですがほんとこんな感じだったんですよ! 視聴時の Twitter 投稿を見るとなかなか笑えます。

ichijo.nori(@ichijo)/#新世界より – Twilog[twilog.org]

最終回視聴後、原作小説を買い読了。アニメの BD も全巻買い。何ともいやはや。

作品を比べることに意味はありませんが、個々のキャラクターなどに依らず、作品そのものにここまで惹かれたのは「新世紀エヴァンゲリオン」以来な気がします。これだけで友人諸兄姉の「そんなに!?」というリアクションが聞こえてきそうですが、私の中では誇張なくそんな感じです。

閑話休題。
一方、好き嫌いはひとまず置いておいて、なにぶん重厚な作品の2クールアニメ化ですから、「よく分からん」という感想が方々から上がるのも理解できます。実際私も視聴時はそんな感じでした。

その後原作を読み、アニメを観返した自分にとってひとつ言えることは、「この作品は本当にうまく小説とアニメで相互補完が成されているな」ということ。
小説を読んだだけではうまく想像できなかった部分が映像化され見事に生きた。アニメだけではよく分からなかった背景や事象が小説でしっかり固められている。この噛み合い具合には感心しました。

それでも例えばアニメを観た方が、上中下巻からなる小説も読むというのは、それこそ好きでないとできないことだと思いますので、ここで「アニメ観たけどよく分かんなかった」という方のためにざっくりとではありますが基礎講座を開きたいと思います。細かい部分は端折ってますが、自分も放送時観ていてよく理解できなかった部分を重点的に解説したいと思います。
これらは私が解釈した上でのまとめですので読み違いがあるかも知れませんが、基本的には明示されている部分を中心に取り上げます。私個人の解釈などは別途脚注などで触れようかと。

アニメを既にご覧になった方向けに記述していますので、時系列は意図していません。理解しやすい順で書いています。また言うまでもなく物語の最重要項目について触れていますので、これから観てみよう、読んでみようと思われている方はご注意ください。


ちょっと長いので目次。


1. 基礎知識

1-1. 呪力とは何か

呪力とは何か
第十三話「再会」 / 第十九話「暗闇」
第一話「若葉の季節」

我々からすると「超能力」と捉えてよい。その中でも特に「念動力(サイコキネシス)」、つまり触らなくても物を動かせる、というのがイメージに近い。
呪力は実際にはそれだけに留まらず、火を操ったり(魔法のように火の玉を出す、とかではなく松明の火を大きく燃え上がらせたり、草木を発火させたりという「元」が必要になる)、浮遊させたりすることができる。

ファンタジー作品のような「魔法」的な使い方ができないのは、呪力が「イメージ」に由来することが理由かと思われる。「何かを燃やす」「持ち上げる」という具体的且つ明確なイメージの力、想像力が呪力の発動や強さに直結するので、あまりに突飛な現象はうまくイメージすることが出来ず、呪力が働かない。
例えば「水を沸騰させる」ことはイメージできても、「水を水素と酸素に電気分解させる」というのはなかなか具体的にイメージできないかと思われる。勿論想像力次第なのでちゃんと明確にイメージできる者には扱うことが出来るだろう。このあたりも含めて呪力の向き不向きが個々人に存在する。

1-2. いつの時代の話か、なぜ現代文明が消滅しているか

いつの時代の話か、なぜ現代文明が消滅しているか
第一話「若葉の季節」 / 第一話「若葉の季節」

現代から1000年後の日本。場所は現在の茨城県。舞台は神栖66町という町。町の人口は約3,000人。
西暦2011年頃、人間社会における呪力(当時はサイコキネシス = Psychokinesis = PK と呼称)の誕生により、全世界が戦いの暗黒時代へ突入。当初の大多数の非能力者人間による能力者への迫害・攻撃により、皮肉にも生存を脅かされた能力者の呪力は飛躍的に向上した。しかも呪力にエネルギーの限界はない(イメージの力なので疲れれば弱まるが、ただの疲労なので休めば回復する)。これにより非能力者優勢の形勢は逆転。
200~300年ののちに地球上の政府は全て事実上瓦解。先史文明は完全にリセットされた。世界の総人口は全盛期の2%程度まで激減。

その後600年にわたり王朝時代が続くが、激しい世代間争いにより衰退。そこでそれまで静かに先史文明の遺産を守っていた科学文明継承者たちが表舞台に出てくる。そして彼らの働きにより社会全体を争いから愛の社会へ仕組みそのものを変え、更に人間自身そのものに人を攻撃できなくする「攻撃抑制」と「愧死機構」が組み込まれたらしい(後述)。

最初の能力者が発見された2011年から約790年後、新暦が始まる。「新世界より」の舞台は新暦223年、早季が12歳のところから始まる。この時代の日本列島の人口は五万から六万程度とされている。

1-3. 攻撃抑制、愧死機構とは

攻撃抑制、愧死機構とは
第四話「血塗られた歴史」 / 第四話「血塗られた歴史」
第二十五話「新世界より」

人間社会に呪力が誕生してからというもの、戦いに次ぐ戦いの暗黒時代へ突入した。実に500年以上にわたってその血生臭い時代は続くことになる。その経験の後、人間は「人間相手には呪力を使って攻撃をしない」ことを実現するため幾つかの手段を執ることになる。

ひとつは教育。徹底した催眠暗示を含めたマインドコントロールにより、人間を攻撃してはいけないことの刷り込み。

ひとつは心理学的手法を用いた“危険因子”のピックアップ。心理テスト、性格診断などにより、残虐性をもった子どもは事前に排除する社会作りへシフトした。ほぼ100%、事前に「抽出」できるようになったとされる。

加えて注目したのは霊長類・ボノボの社会。彼らのコミュニティでは争いがほとんど存在しない。グループ内で緊張が高まると、雌雄の別なく性的接触を取る。成獣の雌雄であれば交尾となるが、同性間や未成熟の個体間でも擬似的な性行為を行うことが観察されている。これによりコミュニティの緊張状態を緩和し、争いを未然に防いでいると思われる(cf. ボノボ – Wikipedia[wikipedia.org])。
それに倣ってこの時代では妊娠する可能性のある異性間セックスは厳格に制限されているものの、性別を問わず性的接触は寧ろ推奨されているらしい。また普段の生活であってもお互いに触れあうことが親密さの表れとなっており、抱きしめるなどは日常的な光景となっている。

これらの方針の転換により争いの存在しない社会作りに成功したが、それでも完全ではなかった。

そこで取り入れられたのが「攻撃抑制」と「愧死機構」であるとされる。
攻撃抑制は、例えばオオカミなどの攻撃力の高い肉食動物であるほど、味方を攻撃することはない。狩りと称して身内の子どもを襲ったりすることはない(一方ネズミなどではカニバリズムが見られる)。この「同種族に対する攻撃抑制」を人間は自らの遺伝子を改変させ組み込んだ。これで人間に対する攻撃性がそもそも生まれなくなった。
もうひとつ人間自身に取り込まれたシステムが「愧死機構」である。

愧死(きし)
深く恥じて死ぬこと。慚死(ざんし)。また、死にたくなるほど恥ずかしく思うこと。

これは人間を攻撃しようとしていると脳が感知すると自らのサイコキネシスにより腎臓と副甲状腺の機能を停止させ、不安・動悸・発汗などの警告発作が起きる。そのまま攻撃を続行した場合には発作による窒息死、または心停止により死に至る仕組み。つまり自分自身の呪力による自殺である[ 1 ]
この時代では、愧死機構で死ぬのは人間として最も恥ずべき悪い死に方であると教えられている。

実際に人を殺さずとも、「人を攻撃したかのように感じる」だけで警告発作が起きるほど強く働く。一例を挙げれば、自走型情報端末・ミノシロモドキは攻撃を受けた際、子を抱く母親の姿をホログラム映像で投影し、攻撃者の愧死機構を誘発させ攻撃をやめさせようとする防衛手段を講じた。この時の攻撃者である離塵師にはその通り愧死機構による警告発作が起きた。

2. 悪鬼と業魔について

2-1. 悪鬼と業魔の違い

悪鬼と業魔の違い
第十二話「弱い環」
第十二話「弱い環」

どちらも呪力の脅威であり、一種の病気とされているが両者の立ち位置は全く異なる。

「悪鬼」とは、前述の「攻撃抑制」「愧死機構」が遺伝子異常で働かず、且つ極めて残虐な性向を持ち、人間への攻撃欲求がある者のこと。よって人間社会全体が悪鬼の誕生を防ぐことに注力している中にあって悪鬼が出現する可能性は極めて低い。現に200年以上にわたって現れていなかった。

「業魔」とは、攻撃抑制も愧死機構も正常に働き、残虐性もないが、「呪力の漏出を止めることが出来ない者」のこと。
呪力とはイメージの力であり、表面的な呪力は意識によって制御されている。「何かを、こうしよう」という具体的で明確なイメージに沿って発動する。
しかし人間の意識というのは全体の表層部分、氷山の一角であり、多くの無意識の領域が存在する。その無意識下での呪力の発動、これを漏出と表現している。漏出した呪力も当然力を持ち、微弱ではあるが影響を周囲に与える。
業魔とは、この本来微弱であるはずの呪力の漏出が夥しく、あたかも蓋が壊れたかのような者のこと。意志による呪力の制御が全く出来ない。呪力封印の施術を行ってもまったく効果がない。
その呪力の漏出は周囲に甚大な影響を与える。生物・無生物問わず異形化させ、環境すら変異させる。勿論人は近づけなくなる。

2-2. 悪鬼や業魔をなぜ倒せないのか(なぜそんなにも恐れるのか)

悪鬼や業魔をなぜ倒せないのか(なぜそんなにも恐れるのか)
第二十一話「劫火」 / 第十話「闇よりも」

破壊的な影響を与える存在でありながら、人間には彼らを止める術がないから。
強力な攻撃抑制と愧死機構の縛りにより、殺すことはおろか攻撃すらできない。

一方悪鬼は人間に対する攻撃性が顕著である。その一因として自分が攻撃されるかもしれないとの恐怖から先制攻撃を繰り返す、または一種の快楽物質が分泌されて殺戮を続けるという説があるらしい。人間以外の者(例えばバケネズミや不浄猫)に殺害を頼むにしても悪鬼は呪力攻撃に長けるので倒すのはまず無理である。
過去悪鬼を倒すことが出来た事例も、この上なく幸運なチャンスがあったためとのこと。

業魔は呪力の漏出により人が近づけなくなり、止めようにも通常の人間には同じ人間である業魔を殺せないので、業魔自身に自殺を促すか、人間以外のものに殺害を頼むほかない(これすらも殺す意志があるわけで依頼者には警告発作など愧死機構が働く可能性がある)。また呪力の漏出は無意識によるものなので、それが原因で死人が出ても業魔自身には愧死機構が働かない[ 2 ]

悪鬼と業魔、どちらも人間を脅かす存在だが、それでも敢えてどちらがマシかと言えば業魔であろう。彼らには良心があり自殺という手段がある。

2-3. 瞬はなぜ業魔になったのか

瞬はなぜ業魔になったのか
第八話「予兆」

理由は分からない(業魔になる原因は解明されていない)。ただ、素直で心優しい子ほど業魔化する確率は高いという傾向はある模様(症例そのものが少ないのでだからといってそのような子を「危険因子」とはできないだろうし、仮にそうしたら穏やかさを目指した社会の本末転倒である)。

瞬は業魔ではないか、という疑いが出たのが各人の呪力に沿って行われた実習授業。瞬は「鶏卵を呪力で成長を早め、通常21日ほど要するところを2時間ほどで孵化させる」というとてつもなく難しい課題だった。胚の成長を250倍にまで速めるという技術的な難度と共に、「生物に直接干渉する」のは人格的にも優れていると認められた一部の者にしか許されていない。それだけ瞬は認められ、期待されている人間であった。
ところが、その瞬の行った鶏卵の実習は失敗に終わる。瞬の呪力による干渉とは別に(この頃にはもう意識的にも呪力をうまくコントロールできていなかったと思われる)、呪力の漏出により鶏卵の胚の成長に予期せぬ影響が出ていた。中で育っていたのは、雛とは似ても似つかぬ怪物であった。

3. 人々について

3-1. 祝霊の後、なぜ封じられたのか、なぜその後も呪力を使えるのか

祝霊の後、なぜ封じられたのか、なぜその後も呪力を使えるのか
第一話「若葉の季節」
第一話「若葉の季節」 / 第一話「若葉の季節」

個人差があるが、おおよそ12歳前後で呪力が使えるようになる。最初はポルターガイスト(勝手に身の回りの物が動く)という現象によって現れる。
この時代の人々にとって呪力というのは人間が持つべき当然の力であるので、この呪力の萌芽は「祝霊」と呼ばれ、大人への仲間入りをしたことの証でもある。

呪力を迎えた子どもはすぐ町の外の清浄寺に連れていかれる。そこで護摩を焚き、迎えたばかりの呪力を一端放擲する。そして新たに真言(マントラ)を授けられ、真言によって呪力を操るようにリセットする[ 3 ]。この真言は一人ひとり異なったものであり、他人に教えてはならない。勿論、忘れてしまったら呪力は使うことが出来なくなる。

呪力を学校で鍛えるうちに、小さな呪力であるならば誰でも真言をいちいち口にせずとも瞬時に圧縮した形で心の中で唱えることができるようになったと早季は言っている。時間をかけて真言を唱える場合はイメージの難しい余程大きな呪力を扱うときの模様(不浄猫を倒す時、微粒子で真っ黒に染まった川の水を透明にする時などは唱えている)。

祝霊を迎えた子どもは小学校を卒業し、上級学校である全人学級へと進む。つまりこの時代において小学校の卒業のタイミングは一人ひとり異なる。

3-2. 班行動について

班行動について
第一話「若葉の季節」

全人学級では6人一組の班分けがなされ、行事なども含めて以後は班行動が主体になる。
主人公たちは一班であり、成員は以下の通り。

渡辺早季
朝比奈覚
秋月真理亜
伊東守
青沼瞬
天野麗子

またのちに町が襲撃された非常事態の際にも訓練通り5人一組の班行動をと指示されたが、この時代には班という単位でのグループ行動が基本にあるようである。

3-3. 夏季キャンプの際に再び呪力を封じられたが、なぜ復活させることができたのか

夏季キャンプの際に再び呪力を封じられたが、なぜ復活させることができたのか
第四話「血塗られた歴史」 / 第六話「逃避行」

ミノシロモドキ(国立国会図書館の自走型情報端末)から禁断の史実を知ってしまった子どもたちは、居合わせた清浄寺の僧侶、離塵師に呪力を凍結されてしまった。

その後、バケネズミの巣穴に閉じ込められた早季と覚は暗闇の中で朦朧と催眠状態に陥ってしまう。早季はそれを利用して、たまたま覚えていた覚の真言を再び覚に与えたことによって覚の呪力が復活した(真言とは聖なる言葉であり、本来は教えあったり、控えておくことすら禁じられていたが、一班の子らはそれぞれこっそりと控えていた。早季と覚は見せ合ったことがあった。このあたりも幼いときからの催眠暗示が施されなかった特別な一班の子どもたちだったせいかもしれない)。
町に戻ってから同様の手順で全員の呪力が復活した。子どもたちは大人たちを無事に出し抜けたと思ったようだが、このあたりもバレていたようである。

3-4. いなくなった子どもとは何か、なぜ覚えていないのか

いなくなった子どもとは何か、なぜ覚えていないのか
第一話「若葉の季節」 / 第二十三話「少年の顔」 / 第二話「消えゆく子ら」

処分された。
祝霊が来ない子ども、呪力がうまく扱えない者、またルールを無視し協調性の見られない者はある時いなくなる。数日学校を休んだ頃には、誰かが居なくなったことすら忘れられる。「班の人数は通常6人なのに、何故かうちの班は最初から4人だった」といった風(一班には本当は天野麗子と青沼瞬がいたが、麗子は呪力がうまく扱えなかったため、瞬は業魔となったためある日いなくなった)。
具体的には後述の不浄猫を使って処分対象の子どもを秘密裏に殺害する。不浄猫が作り出されるまではバケネズミを利用していたらしい。

この時代では人に基本的人権が発生するのは17歳からである。つまり17歳未満に人権はなく、教育委員会の裁量で子どもの処分が可能になっている。

記憶が消されているわけだが、その手法については詳しくは分からない。教育委員会による強力な催眠暗示かと思われる。

3-5. 一班の倫理規定を破った一連の行動は全てバレていたのになぜ処分されなかったか

一班の倫理規定を破った一連の行動は全てバレていたのになぜ処分されなかったか
第七話「夏闇」
第十二話「弱い環」

全て渡辺早季のため、とされる。早季は将来の町の指導者と目されていた。
早季は人格係数に特出していたらしい。人格係数とは「想定外の出来事に遭って心の危機を迎えても、自分を見失ったり、心が壊れたりせず一貫した自分を保てるか。どれだけその人の人格が安定しているか」を示す数値。早季はそれが全人学級始まって以来の数値だったとのこと。早季はどれほど辛い経験に直面しても必ず立ち直る強さがあり、心に振れ幅があったとしても極めて短期間で安定状態に戻すことができたとされる。
真理亜はそれに気づいていた。そして守はそうではないことも。だから真理亜は守と生きていくことを選んだ。

そして一班の子どもたちに敢えて危険の可能性を残すかのような待遇をしたのは「従順な子羊だけでは町を守れない」から。ただ瞬が業魔化し、真理亜と守が町を出るというのは予想だにしていなかった事態であった。

3-6. 思春期、なぜみな同性愛の時期を過ごしたのか

思春期、なぜみな同性愛の時期を過ごしたのか
第八話「予兆」

人間社会がボノボ型の愛のコミュニティに変化した事による。
この時代では同性間の濃密な接触は黙認、寧ろ推奨されている部分があり、思春期を迎えた男女は大抵交際相手がいる状況になっている。男女間の交際は禁止されているわけではないが、事実上同性間交際のほうが多い模様。
【1-3. 攻撃抑制、愧死機構とは】も参照。

3-7. 真理亜と守はなぜ町を出たのか

真理亜と守はなぜ町を出たのか
第十四話「雪華」

守が処分対象になったため。間一髪で逃れた守はそのまま町を一人で出た。
それを追いかけた真理亜は、町の外で守と二人きりで生きていくことを決意する。守は弱く、一人では生きられないからと。

3-8. 真理亜と守は結局死んだのか

真理亜と守は結局死んだのか
第十六話「愛する早季へ」

YES。
この件に関しては町も徹底的に調べた模様。決め手となったのは町に残されていた二人の歯形だった。そのことからおそらく、バケネズミから町へ提出された遺骨は「部位によってはバケネズミと見分けがつかない」程度の一部分ではなかったと思われる。ショックだ…。

真理亜が早季に宛てた手紙には一枚の絵も同封されていた。真理亜のことばかり描いていた彼が最後に描いたのは、早季と真理亜の二人だった。

4. 町について

4-1. 不浄猫(ネコダマシ)とは

不浄猫(ネコダマシ)とは
第一話「若葉の季節」 / 第二十五話「新世界より」
第十四話「雪華」

処分対象となった子どもを殺害するために猫を遺伝子操作して作り出されたとされる暗殺用動物。
上下の顎に長い牙があるが、先端は尖っていない。獲物の首を突き刺すのではなく、頸動脈を圧迫することによって失神させ扼殺させるように作られている。その理由は、現場に血痕を残さずに殺害し、そのまま遺体を持ち去ることができるようにするため。不浄猫によってそれまでバケネズミに頼っていた子どもの処分は「ずっと洗練されたやり方」になった。
言わずもがな、子どもの処分にバケネズミや不浄猫を使うのは、人には愧死機構があって直接手を下せないからである。

ちなみにコネコダマシはめちゃくちゃ可愛い。

4-2. 八丁標とは、その真の目的

八丁標とは、その真の目的
第一話「若葉の季節」 / 第九話「風立ちぬ」

町の外からの邪悪なものから守るため、とされているが事実は逆。
全ては呪力の漏出に関係する。正常な人間でも無意識下の呪力の漏出は起きており、微弱ではあるが周囲に影響を与える。それが多数の人間、長期間となるとその影響は大きい。それを「町の外」に向けるためのもの。つまり「八丁標の外は恐ろしい」という刷り込みを幼少時から催眠暗示することによって、無意識下の呪力の漏出を「町の外へ向ける」ためのものであった。

4-3. 八丁標と、東京が地獄と化していたこととの関係

八丁標と、東京が地獄と化していたこととの関係
第二十二話「東京」
第二十三話「少年の顔」

「八丁標の外は恐ろしい」というのと同様に、この時代の人間の共通認識として「戦後の東京は地獄となっている」というのが浸透している。
この無意識下まで根付いているイメージが東京を実際に地獄と化している一因と考えられる。現代の「都会は怖いところ」をもっと強烈にした感じだろうか。

4-4. なぜ新種の生き物が多いのか

なぜ新種の生き物が多いのか
第三話「ミノシロモドキ」 / 第三話「ミノシロモドキ」 / 第三話「ミノシロモドキ」

これも呪力の漏出に関係しているとされる。
八丁標の外へ向けられた呪力は周囲の生物にも影響を及ぼしたと考えられる。それを裏付けるかのように、新種は町の周囲で発見されることが多いとのこと。

5. バケネズミについて

5-1. 奇狼丸は結局味方だったのか

奇狼丸は結局味方だったのか
第七話「夏闇」
第二十四話「闇に燃えし篝火は」
第二十五話「新世界より」

YES。
彼は最強コロニーの総大将であるが故、不可解にも思える行動があったが、彼は最後まで人類の味方だった。英雄伝として見るならば奇狼丸こそ本作のヒーローと言っていいかもしれない。彼がいなくてはスクィーラ、そして悪鬼との戦いに勝つことは出来なかった。

5-2. バケネズミとは

バケネズミとは
第二話「消えゆく子ら」
第十七話「破滅の足音」 / 第十七話「破滅の足音」

ハダカデバネズミを起源とするとされる獣。人間の呪力により体躯を大きくさせられ知能も格段に引き上げられた。二足歩行ができ、中には人語を解する者さえいる。この時代では人間に次ぐ知能を持つ生物であるが、呪力を使うことは出来ない。
ハダカデバネズミは蟻や蜂などと同じ真性社会性動物。バケネズミも同じくコロニーを築き、女王バケネズミのみ生殖能力を持つ。その他のバケネズミは全てがワーカー。

バケネズミは本来、自分たちのコロニーの存続が唯一の生存目的であり、生を懸けて戦う名目である。
その上で呪力を持つ人間には絶対の服従を示し、「神様」と崇める姿勢を見せる。人間社会との関わりとしては、人間は一部のバケネズミを使役している。町内の清掃作業だったり、野外での試料採集、その他労働作業など。

もし人間に逆らうような行為が見られれば即座に駆除処分、最悪の場合にはコロニーごと消滅させられる。その際には有害鳥獣対策課の鳥獣保護官と呼ばれる専門職員が駆除にあたる。バケネズミは人間を神様を崇めるが、鳥獣保護官のことは同じ神でも「死神」として恐れているという。

5-3. バケネズミでも様々な形があるのはなぜか、終盤に登場した生物兵器は

バケネズミでも様々な形があるのはなぜか、終盤に登場した生物兵器は
第六話「逃避行」 / 第七話「夏闇」 / 第二十話「冷たい日だまり」

バケネズミはコロニーで唯一の女王から生まれるが、女王バケネズミが思い通りの変異個体(ミュータント)バケネズミを生むことができているらしい。
その結果、擬態に優れたバケネズミや、自然の摂理からは矛盾した生態(自爆攻撃のみに特化したバケネズミなど)のものが生まれている。およそ女王は兵器工場のようである。
【6-6. なぜバケネズミが生まれたのか】も参照。

作中、他にも見慣れない生物が多数登場するが、「変異個体バケネズミ」と「新種の野生動物」とは成り立ちも目的も全く異なる。一例として、東京の地で登場した数々の生物は野生動物である。

6. 物語の最奥について

6-1. 悪鬼をどうやって倒したのか

悪鬼をどうやって倒したのか
第二十五話「新世界より」

奇狼丸を殺害した事による愧死機構によって死んだ。なぜ愧死機構の働かない悪鬼が、というと実は「悪鬼ではなかった」ため。

6-2. そもそも悪鬼ではなかった、その理由

そもそも悪鬼ではなかった、その理由
第二十五話「新世界より」 / 第二十四話「闇に燃えし篝火は」

彼女は真理亜と守の子どもである。
おそらく彼女の生後まもなく真理亜と守はスクィーラ率いるバケネズミに殺され、子どもはバケネズミによって育てられた。その為彼女(仮に両親の名の“ま”繋がりで M とする)は自分をバケネズミと認識している。よって M の攻撃抑制と愧死機構は同種族の「バケネズミに対して」機能することになる。人間がバケネズミを呪力で殺すことができるように、自身をバケネズミだと認識している M は呪力で人間を殺すことができた。よって彼女は悪鬼ではなかった。

それを利用して、奇狼丸は覚の服を着、露出する部分は包帯を巻いて遠目には人間と区別がつかなくなるように変装した。突撃する奇狼丸の後ろに隠れるように早季も追い、あたかも奇狼丸が呪力を使っているかのようにバケネズミを攻撃する。これによって M は奇狼丸を人間と見間違え、呪力で攻撃し殺害。奇狼丸は最期に包帯を取り除き自分がバケネズミであることを M に見せつけて絶命する。続いて M に愧死機構が発現、死亡した。

6-3. サイコバスターとは何か、なぜ使わなかったのか

サイコバスターとは何か、なぜ使わなかったのか
第二十三話「少年の顔」
第二十四話「闇に燃えし篝火は」

呪力を持つ人間のみに作用する、古代の非能力者が開発した強毒性炭疽菌の生物兵器。
これを風下においた悪鬼に使おうとしたのが当初の計画。実際に使用したが距離が近すぎたため、覚も犠牲になることは避けられなかった。既に一班の皆を失い、その上覚まで失うことに耐えられなかった早季が咄嗟に呪力の炎でサイコバスターを破壊してしまった[ 4 ]

6-4. スクィーラはなぜ人類に反旗を翻したのか、その目的は何だったのか

スクィーラはなぜ人類に反旗を翻したのか、その目的は何だったのか
第二十一話「劫火」

人間はバケネズミに自由と権利を認めていると言う。ただし歯向かったら殺す、とも。
果たしてこれは自由と言えるだろうか? 逆らったら殺す、逆らわなければ自由に暮らしていい。これでは「実際に逆らわないとしても、自由とは言えない」。

スクィーラはその人間の呪縛から同志、バケネズミを解放しようとした。それも自分のコロニーのためだけではなく、世界中のバケネズミの自由の獲得のために立ち上がった。スクィーラは優れた知略家にして、一貫した理想のために戦った純粋な革命家だった。

6-5. 赤子を奪うこととの関連

赤子を奪うこととの関連
第七話「夏闇」
第二十一話「劫火」

元々バケネズミはコロニー間の戦争で勝利すると、相手コロニーの女王を処刑し、その幼獣を戦利品として手に入れていた。これはコロニーの明日を支える労働力となる。

ところがスクィーラは、人間の子を奪うことを思いつく。そして育て上げれば赤子は自分をバケネズミと認識するだろう。大きくなり、呪力を使えるようになれば「呪力を持つバケネズミ」の出来上がりである。一方人間としてはどう見ても彼らは人間そのものであり攻撃することはできない。

最初は一人(真理亜と守の子)でいい。それで神栖66町から赤子を奪う。
12年ほど逃げ切ればその赤子が成長して呪力を扱えるようになる。そして新たに人間の町を襲い赤子を奪う。覚が「倍々ゲームどころじゃない」と言ったのはこのこと。

神栖66町、それどころか日本列島、極東アジア、大陸、そして世界中の人間とバケネズミの立場が入れ替わる。この確信があったため、虐げられてきた全世界のバケネズミのためにスクィーラは人間に反旗を翻した。

6-6. なぜバケネズミが生まれたのか

なぜバケネズミが生まれたのか
第二十五話「新世界より」

呪力を持つ側の人間が、呪力を持たない非能力者の人間にハダカデバネズミの遺伝子を組み込んで人以下の獣に作りかえた。
呪力を持つ人間は、その呪力の孕む致命的な危険性を防ぐために、自らに攻撃抑制と愧死機構を組み込んだ。その結果、呪力を持つ人間は人間を攻撃することができなくなった。
ところが非能力者たちは違う。彼らは攻撃抑制も愧死機構もないので自由に人殺しができる。この一方的な形勢を覆し、能力者が特権階級として君臨し続けるために、非能力者の人間たちを「同じ人間として認識できなくなるまで貶めた」結果の産物がバケネズミである。

ひとつバケネズミが元人間であることを思わせる件として、女王バケネズミの生み出した「変異個体(ミュータント)バケネズミ」がある。
なぜ女王バケネズミは胎児の形状を自由に作りかえることができたのか。もしコントロールできているとすれば、それは限定的な呪力ではないか。
本来呪力を持たないバケネズミでも、その起源が人間にあるのだとしたら、ある種の呪力が萌芽しても不思議ではない。

だがなぜよりにもよってハダカデバネズミなのか。もう少し可愛げのある動物にはできなかったのか。覚はこう推測する。「醜いからこそじゃないか」と。敢えて醜悪なハダカデバネズミを同じ人間にあてがい、最早何の同情もなく殺せるまでに作りかえたのだ。

お前は何者か、と問われたスクィーラはこう叫んだ。「私たちは人間だ」と[ 5 ]

これがアニメ化に際して冠したこの言葉、「偽りの神に抗え」の真実である。
この物語は最初からバケネズミの視点で描かれたものだった[ 6 ]。バケネズミとはつまり現代の私たちの姿である。呪力を持たない、普通の人間。彼らが新世界の人類、偽りの神と戦う物語なのだった。

スクィーラは真理亜と守の子を「メシア」と呼んでいた。神の子、救世主。その「メシア」という表現にスクィーラが込めた思いの丈を想像すると、彼の覚悟が垣間見れる。


八丁標の向こう

私はアニメ→小説の順で触れましたが、これからという方はどちらがいいでしょうね。アニメの方がいいかな。私はこれで良かったと思っています。機会があれば是非。素晴らしい作品でした。

アニメ「新世界より」
アニメ「新世界より」。
キャラクター原案、このジャケットイラストを描かれたのは「依り」さん。アニメ作品に関わるのは初めてとのことですが素晴らしいですね。好きだなあ。
四巻に瞬の飼っている犬、「すばる」が一緒に描かれているんですけど、これがほんとに優しさ溢れてて。悲しい話なのに優しさを感じられて嬉しかったです。描いてくださってありがとうございました。

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小説「新世界より」
小説「新世界より」。
濃いのはやはり原作小説。どっぷり浸かりたい方は是非小説からどうぞ。

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貴志祐介 「新世界より」 – e-hon[e-hon.ne.jp]

  • Posted at 23:41 on Jul 24, 2013
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