まさか生で観れるとは… HASライヴ

Smile Together projectのチャリティーイヴェント、Human Audio Spongeのライヴへ行ってきました。
いやぁ、まさに感激。言葉が出てこない。「好き」ってこういうことなんだと思い出しました。

今でこそHuman Audio Spongeというユニット名ですが、彼らはあのYMO、Yellow Magic Orchestraの三人。
YMOといえば、私が音楽を聴くようになったきっかけ。
YMOを知ったときにはすでに散開。(83年に散開、私は81年生まれ。)

ま さ か 生 で 彼 ら の ラ イ ヴ を 観 れ る と は っ !

顔文字で表現するなら、

   (T-T) だーーーーーーっっ

もうなんか、胸いっぱい。すごーーーく楽しかった。

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きみとぼくの“ライン”。

最近のmixiに関する記事について。
mixiとは会員制のオンライン・コミュニティ。(SNS、ソーシャル・ネットワーキング・サーヴィス)

「mixi読み逃げ」ってダメなの? – ITmedia

これが実際にどれほど広まっているのか分からないけれど(幸い私のマイミクさんには足跡を気にする人はいない…と思う)、増えてきたのは事実なのでしょう。
mixiサーフ中に記事に出てくる地雷バトンには出くわしたことがあるし、はじめましてのあいさつを書くよう強要している人もたしかにいる。

この記事を読んで私が最初に思ったのは、「なにをそんなに恐れているのか?」
たしかにコメントがつけばうれしい。ボケをかましてコメントが0だとそれはそれで悲しいかもしれない(笑)。
だけどそれは “あなたが” つまらないのではなく、“ネタが” つまらないか、もしくは “とくにコメントすることがない” からであって。
だいたいその人の日記が最新日記一覧に表示されて、それをクリックして読む(=相手に足跡がつく)、それが関心ある証拠。本当に読む気がないのならクリックしない。読まない。
上の記事にリンクされている「mixi疲れ」にも言えることだけど、なにをそこまで… とつい思ってしまいます。

ただたしかなのは、彼らはそれを確実に気にしている、ということ。確実に「読み逃げはいやだ」と思っている、感じている事実。
だからここで「そんなに気にしなくていいんじゃない?」と言っても無意味でただ両者のあいだの溝が深まるだけかもしれない。

どうしたらいいんだろう?

ひとつ言えるのは、気にしない側が無理に気にする人にあわせて行動する必要はない、ということ。
それをしたらストレスになり、mixiは義務になってしまう。(=「mixi疲れ」)

話しあう場やチャンスがもしあれば「自分はこうなんだよ。気にしなくていいよ。いつも読んでるよ。」と説明できるかもしれないけど。
いろんな感性を持った人がいて、ある事象に対して感じる・感じない・その他いろいろがあるのが多様性。それが受け入れられればこういうストレスは生じないと思うのですが。
まぁその「自分にないものを相手に認める」というのが難しいのかもしれない。自分にない価値観を相手が持っている、それを理解できずとも尊重する心。

オンライン・コミュニケイションに限らず、人間関係で大切なのは「理解する」ことではなく、「認める」こと。
理解できないことなんてたくさんある。なんでそんなふうに思うの? なんてことは日常茶飯事。
そこで大事なのは、自分がどうであれ相手は「そう思っている(そう感じている)」ことを認めることです。信じられないようなことであっても。それを否定していたらいつまで経っても親しい関係は築けない。

「分かってほしい」とよく言うけれど、その「分かる」というのはロジック(論理)として理解してほしいというより、自分の思いをそうなんだと認めてほしい、受け入れてほしい、そういう潜在願望であることが多いのではないでしょうか。

ちなみに私は足跡を基本的には踏み返しません。
それはネットでの考え方をそのままmixiにトレースしているから。本来、ネットではアクセス解析をしない限り誰が来たかは分からない。私はそれでいいと思っています。
見たい人が見たいときに見ればいいし、久しぶりにのぞいてみようかな、と思ったときに相変わらずやっている。ichijoも変わんないなぁ、と思ってもらえればいいという方針でずっとやってます(笑)。
(アクセス解析に関しては、サイト作成・運営上、把握しておきたい情報もあるので(OS・ブラウザ・モニタ解像度等)Google Analyticsを利用しています。)
だからmixiの足跡も見ますが、見ていないのと同じくらいに気にしていません。だから踏み返さない。
メッセージが来て初めて、「はじめまして、こんにちは。」
コメントもしたいエントリーにだけ。されたからしかえす、というのはないです。

あと最初に書いた「地雷バトン」に関しては不快以外のなにものでもないですね。あれは嘘つきでは?

なににしろ、もっと自分にされたいと思うことをよく深く静かに考えて、それを相手にするようにする。そこから人への「強要」は出てこないのではと思います。それがこの時代には必要なんじゃないでしょうか。
それにはイマジネイション(想像力)、そして鋭敏に感じ取る正直な心が大事。
John Lennonが “Imagine(想像しなさい)” と高らかに叫んだのはまさに時代の的を射ていると思います。

mixiを利用するときにユーザに求められるのは、毅然とした態度なんでしょうね。
マイミク申請を断るのも場合によっては必要かもしれないし、マイミクを外す必要性も出るかもしれない。
相手に流されないのと同時に、相手を(自分の思いどおりに)流そうとしないことも必要だなと。

相手の価値観を認める(理解なんてできなくていい)。
必要なときには必要なだけの毅然な態度を。
考えてみればどれもオン・オフ関係なく、私たちのつながり、ラインには大切なことだと私は思います。

  • Posted at 21:52 on Mar 24, 2007
  • | (Closed)

無我

先月号のFUDGEに掲載された高木正勝さんの言葉より。

何かを表現しようとして表現すると、いつも失敗してしまう。
散々悩み抜いても答えが見付からなかったり、何か別のものに衝撃を受けて頭が混乱してしまったり、もしくは、何となく「今だ」と勝手に思った時に、覚悟を決めて取りかかると、不意に新しい映像や音楽が生まれる。
自分がいなくなってしまった様な、何か大きな波に乗っかった気分になる。
そんな時に、本当に良い表現や作品が生まれる。

手を動かせば、メロディーや色は幾らでも出てくるけれど、本当に作品として残したい部分、人に伝えたい部分というのは、実は、その瞬間そのものなのかもしれない。
そこには、自分というものは、あまり存在していない気がする。存在してはいけない気がする。
表現者と周りから言われる立場にあるのに矛盾した話だけれど、自分が表現するものに自分が存在してはいけない気がする。
何か別の、もっと大きなものに触れて。
それを残したいし伝えられる形にしたい。

まさにそうなんだよなぁ。
本当に人を感動させるもの、ってジャンルは関係なく、創っている本人はその瞬間、どこかに行っているような気がする。
「神懸る」という表現があるけれど、まさにあの瞬間はなにかが降りてる。

その時、自分は存在してはいけない?。
まさにその通りです。

  • Posted at 18:24 on Dec 10, 2006
  • | (Closed)

Creative Class

ここのところ忙しかったのでたまってきた雑誌・新聞などの切り抜き記事をスキャニング。
母が「これってあなたのことじゃないの?」と教えてくれた記事を紹介。

外回りの営業を終え喫茶店で一息。そんなとき、新種の客が増えたのに気づいた人も多かろう。
くだけた服装だが学生ではなくノートパソコンで仕事に没頭。彼らのようなタイプを米国の社会学者がクリエーティブクラス(創造者階級)と名付けたのが四年前だ。

創造性を最大の武器にIT、デザイン、マーケティングなどの分野で働く人々を指す。クラスといっても収入や資産で区分するのではなく、価値観やライフスタイルで階層をくくった点が新しい。
仕事と余暇の境目を意識しない。職場の机よりカフェで気分良く仕事。ものづくりや知識の習得が好き。流行は追うのではなくつくり出す。年収はまちまちでも、そんな傾向は共通するそうだ。

こうした志向は若年層を中心に、業種を問わず広がっているのではないか。細かく管理の網をかける従来の発想では彼らの力は発揮されにくい。
働くことの意味や形は変わりつつある。

日本経済新聞 2006/11/05朝刊より(一部抜粋)

まさに。
もちろん世の中が全部クリエーティブクラスになる必要はないし、なったとしたらそれもまた悲劇。大切なのはそれぞれの歯車が気持ちよくお互いにハマってきれいに回っていくこと。
自分はこの記事で言う「クリエーティブクラス」の価値観の人間なので「今の時代に生まれてよかったなあ」としみじみ。(笑)

カフェでキーボードをぱたぱた。最高です。

均衡を取ろうとする自分と、それを眺めてしまう自分

高校の恩師、佐野先生のブログで語られた「デリケート・バランス」。
まさに… そこなんですよね、自分の位置も。

紹介します。

デリケート・バランス(上)
デリケート・バランス(中)
デリケート・バランス(下)

「生きること」と「食べていくこと」。

先生の言葉が強烈に響いたので引用させていただきます。

(芸術家にとって)「生きること」と「創ること」は一致しているのであって、そこに「食べること」への意識が介入する余地は無い。私の「AとBとのバランス」など、芸術家にとっては「生ぬるい戯言」だと思い知らされた。(中略)
あれから40年…私は今なお「デリケート・バランス」に生きている。忸怩たる思いもあるが、これもまた「自分の人生」だと思えないこともない。しかし、残された人生の時間を全て演劇創造に充てることで、あの21歳だった自分、打ちのめされていた自分に応えて上げたい気持ちもある。

正直、自分は打ちのめされ続けている気がする…。
手を抜いてるわけじゃない、全力で対峙しているつもりだけど、まだまだなのかな。まだまだなんだろうな。ゆっくり考えたい、時間がほしい、と思うのは甘えなのかなぁ。
先生の

「流されそうな川の真ん中に杭を打ち込み、それに一時しがみつきたい」が本音だった。立ち止まる時間が欲しかったのである。

という言葉、痛いほどよく分かります。

これはしばらくまたこもって考えます。
この前「考える前に飛べ」と書いたけれど、やっぱり考えてしまう。我ながらもどかしいというか苛立つというか。