昨日はひきずることについて書きましたが、そのあとふとんの中で読んでいた、「これだけは、村上さんに言っておこう」(村上春樹)にこんなことが書かれていました。まさにぴったりなもので自分でもびっくり。
この本は、読者からのメールに春樹さん本人が返事を書く、という形式なのですが、春樹さんの返事の部分を紹介します。(P.96、質問140)
そのエッセイでは僕も偉そうなことを書きましたが、このトシになってもやはり人は傷つくものです。嫌なことつらいことはけっこうあります。そういうときには僕にはひとつのチェック・ポイントがあります。それは、
<自分はこのことによって、誰か第三者を傷つけただろうか?>
ということです。もし自分しか傷ついていないのなら、それはラッキーだったんだと考えるようにします。というのは、自分のことなら自分でなんとか処理できるけれど、他人がからんだことはそんなに簡単には処理できないからです。
そういう風に考えていくと(あるいは考えようと努力していると)、少しずつ強くなっていけます。人生でいちばんきついのは、心ならずも誰かを傷つけてしまうことであって、自分が傷つくことではありません。
ちょっとこれを読んだときは言葉が出ませんでしたね。そうだ… そうだよな、と。
ちなみに、「そのエッセイ」というのは、「村上朝日堂はいかにして鍛えられたか」という本に収録されている、「傷つかなくなることについて」というエッセイです。
それを改めて読んでみたらびっくりでした。以前読んだのがいつだったか思い出せないけれど、前よりずっと心に響きました。そちらからも少し抜粋して紹介します。
この文章を読んでいる若い方の中には、いま同じような辛い思いをなさっておられる方もいらっしゃるかもしれない。こんなことで自分は、これからの人生を乗り越えていけるのだろうかと悩んでおられるかもしれない。でも大丈夫、それほど悩むことはない。歳をとれば、人間というものは一般的に、そんなにずたずたとは傷つかないようになるものなのだ。(中略)
今では誰にどんなひどいことを言われても、友だちだと思っていた人に裏切られても、信頼して貸した金が戻ってこなくても、ある朝開いた新聞に「村上はノミの糞ほども才能がない」と書いてあっても(ありえないことではない)、そんなに傷つかない。もちろんマゾヒストじゃないからいい気持ちはしない。でもそれで深く落ち込んだり、何日もくよくよ思い悩んだりはしない。「しゃあない、そういうものなんだ」と思って、そのまま忘れてしまう。若いころにはそんなことはできなかった。忘れようと思っても簡単には忘れられなかった。(中略)
でも僕はそのときつくづく思った。精神的に傷つきやすいのは、若い人々によく見られるひとつの“傾向”であるだけではなくて、それは彼らに与えられたひとつの固有の“権利”でもあるのだと。
だいたい自分でも気づいているのですが、(こういう面での鋭さはいいのか悪いのか…)やはり今まで誰かをがっかりさせたり、その気はまったくなくとも傷つけたことってかなりあると思います。
こればかりは本当に申し訳ないとしかいいようがありません。ごめんなさい。
もちろん言い分はあるし、誤解とかもあると思うのだけど、あえて弁解はしないです。
それに比べれば自分だけの問題というのは(問題の深刻さという意味では)単純なものですね。
春樹さんの言うように、
「たとえ傷ついても頭にきても、それをするりと飲み込んでキュウリみたいに涼しい顔をしているように心がけ」たいものです。
村上春樹 「『これだけは、村上さんに言っておこう』と世間の人々が村上春樹にとりあえずぶっつける330の質問に果たして村上さんはちゃんと答えられるのか?」
村上春樹 「村上朝日堂はいかにして鍛えられたか」