バルガス=リョサ「若い小説家に宛てた手紙」

書店で見つけた本ですが、タイトルに惹かれたので購入。とてもよかったです。
著者は1936年生まれのペルー人小説家、マリオ・バルガス=リョサ。(Wikipedia
今年ノーベル文学賞を受賞されたので本屋さんでもプッシュしていたんですね、感謝。

この本「若い小説家に宛てた手紙」はタイトル通り手紙の形式、相手は出て来ませんが手紙のやりとり形式をとっています。なので語り口は優しく親しみが持てるのですが、語られていることの本質はとてもとても研ぎ澄まされており、非常にソリッドでストイックです。
この本を読んで私が一番印象に残ったのは以下の2点。

・あぁ、自分はやっぱり「小説家」なんだ。
・この感覚は自分一人が味わってきたわけではないんだ。

こうして文面にしてしまうと月並みな感想ですが、これは本当に深く心に沁みてきました。一人じゃないんだ、と。
いくつか印象に残った言葉を。

 天職というのは今もうまく説明のつかないものなのでしょう。そういう人たちは、自分たちは天職を全うすべく召命されている、あるいはそうするように義務づけられていると感じています。というのも、たとえば物語[ストーリー]を書くことで天職である仕事をする、そうすることによって自らを顧みて恥ずかしくない形で自己実現することができるはずだと直感的に感じ取っているからなのです。さもないと、自分は意味もなくただ生きているだけだという惨めな思いに駆られるのです。(中略)

 私の考えが間違いでなければ(といっても、私の場合は正しく言い当てるよりも間違える可能性のほうが高いのですが)、ある女性なり男性は早い時期、つまり幼年期か思春期のはじめに、さまざまな人物や状況、エピソード、自分が生きているのとは違う世界を空想する性癖をもつようになり、この性癖がやがて文学的天職と呼ばれるものの出発点になります。もちろん、空想の翼に身を任せて現実の世界、実生活から遊離していく気質と文学を実践することとの間には深い溝があり、たいていの人はそれを乗り越えることができません。その溝を越えて、書き言葉を通して世界を創造する人たち、すなわち作家というのは上に述べたような性癖、もしくは傾向に加えて、サルトルが<選択>と呼んだ意志の運動を付け加えることのできた少数者のことなのです。彼らは人生のある瞬間に作家になろうと決意した、つまりそうなることを選び取ったのです。(中略)

 文学を志す人は、宗教に身を捧げる人のように、自分の時間、エネルギー、努力のすべてを文学に捧げなければなりません。そういう人だけが本当の意味で作家になり、自分を越えるような作品を書くのことのできる条件を手にするのです。われわれが才能とか天分と呼んでいるもうひとつの神秘は、若くして華々しい形で生まれてはきません  少なくとも小説の場合はそうです。

第一章 サナダムシの寓話

この本では小説を構成する要素についても触れられています。文体、空間、時間、転移、入れ子箱的世界…。数多くの小説作品を引き合いに出して、それらの要素がどのように作品の中で働いているのかを紐解きます。(しかしそれがこの手紙の目的ではありませんのでなぞる程度です。)
でもだいたいの場合、小説家は無意識にそういうのを作品に取り込むんじゃないですかね。僕はそういうテクニックを持ち込もうなどとは考えたことがありません。自然になるべき形でたまたま(そして必然的に)「そうなった」という感じです。でも新しい技術を取り込んで磨き上げ自分のものにしていくことは必要でしょうね。

そういう「技術的な」話も盛り込まれていますが、この本は決して「小説の書き方指南」ではありません。
著者の思いは次の一文に集約されるでしょう。

 成功したフィクション、あるいは詩の中には、理性的な批評的分析ではどうしても捉えることのできない要素、もしくは広がりがあります。なぜなら批評というのは、理性と知性を用いて行うものであるのに対して、文学的創造にはそうした要因以外に、直感、感受性、洞察力、それに偶然までもが決定的な形で作用しており、そうしたものはつねに批評的研究のこの上もなく細かな網目から逃れて行くものだからです。ですから、他人に創作法を教えることなどできません。できるのはせいぜい文章の書き方や本の読み方を教えることくらいものもです。
 親愛なる友よ、私が小説の形式に関してこれまで手紙に書いてきたことはきれいさっぱり忘れて、まずは思い切って小説を書きはじめてください、そう申し上げて筆を置きます。
  幸運を祈ります     リマ、一九九七年五月十日

第十二章 追伸風に

バルガス=リョサ著(木村榮一訳):若い小説家に宛てた手紙
バルガス=リョサ著(木村榮一訳):若い小説家に宛てた手紙
ISBN: 978-4-10-514506-4
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  • Posted at 21:27 on Dec 07, 2010
  • | 2 Comments

2 Responses

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  • HAL says:

    >小説家は無意識にそういうのを作品に取り込むんじゃないですかね。僕はそういうテクニックを持ち込もうなどとは考えたことがありません。自然になるべき形でたまたま(そして必然的に)「そうなった」という感じです。

    うんうん、何となく分かるような気がします。
    多分そこまで考えながら書く人はいないかも。
    やはり天性の何がしかが、そういう方向へと勝手に進むのでしょうね。
    私は子供の頃から絵を描くのが得意でした。中学生くらいまで。(笑
    少し大人になって再び絵筆を握ったとき、あなたの絵は油絵じゃないよと、
    何かデザイン的なんだよね、なんて言われたのです。
    まさに天職じゃなかったんだという瞬間だったのでしょう。

    >性癖に加えて<選択>という意思の運動を付け加える。
    何か面白いよね~性癖なんだ。
    私も何か作り出したいという性癖を持ってるのは持ってる。
    この魚をどうやって料理したら面白いだろうかと毎日思ってる。(笑

    noriさん、あなたのその性癖大事にしてくださいね。もっと運動もしてね。

  • >> HALさん
    ありがとうございます~><
    天職って不思議ですよね…。
    本人からしたら「天職というか、これしかできることないので…」という感じなんだと思います、きっと。

    性癖、言われてみるとそのとおりですよね。
    もう切っても切り離せない自分そのもののような。
    僕が一日も欠かさず考えているのは小説と料理と写真です。
    多すぎですね(笑)。
    ありがとうございます!がんばります!